アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(11/12)

(11)自由と強制、オートとマニュアル

しかし考えてみれば「健常者」だって、というか健常者のほうが、そういう風に生きているかもしれません。言うなれば「イライラする」と感じてから「ラーメン食おう!」まで一足飛びです(私だけかもしれませんが…)。

自分は本当に腹が減っているのか、自分の身体が欲しているのはラーメンよりスシではないのか、そういえば一昨日もラーメン食べたばかりではないか、そんなに塩分とって血圧は大丈夫か、といった本来あったはずの問いは、ここではすべて省略されているのです。そして重要なのは、一見その対極にある「健康にいいから、毎朝黒酢を飲むことにしているのよ」といったような習慣化もまた、一種の「オートプレイ」だということです。

中動的であるということは、いわば「オート」ではなく「マニュアル」であるということです。ゲームとしての「健康」は、自分が何を食べるべきかを考えることを要求します。そしてこれを間断なくプレイすることは、どのような内的欲求に突き動かされて、どのような外的要因に刺激されて食べるのか、常に考え続ける、ということを意味します。このマニュアルの状態を保つことは、現実的には不可能です。だから我々は時に行為生成を簡素化し、オートとマニュアルを切り替えながら生きるのです。というか、ほとんどオートで生きている、と言っても過言ではないように思われます。

だとすると、オートプレイのパターンが生成されるプロセスを問うことは極めて重要です。そしてその妥当性を問い、時に解体し修正するという意味では、マニュアルの選択肢が残されていることもやはり重要です。

一周回ってユートピア的にも見えるミァハの答えは、この点においてこそ批判されるべきなのです。WatchMeとメディケアによるオートプレイは、あらゆる環境の変化に柔軟に対応できるようでいて、そのパラダイムの外部にある新たな驚異にはおそらく対応できません。人類は、調和によって進歩を捨てたのです。仮に『ハーモニー』の結末を非人間的な悲劇と呼ぶのであれば、以後人類はオートプレイの限界を超えられなくなってしまった、というこの一点において悲劇と理解されるべきなのです。

そしてこの理解によって、我々は國分の結論からもう一歩先に進むことができます。いまや明白なのは、我々の行為生成の過程には自由と強制の対立軸のほかにもうひとつ、マニュアルとオートの対立軸があるということです。行為生成における意志の前提は、この対立軸においてもう一度否定されます。オートプレイで行為する我々が、その都度強固な意志など持っていようはずもないからです。

「食べるものを選ぶ」という提案の本質は、國分自身がいうように強制を薄め自由を高めることにあるのではなく、オートを解体しマニュアルへと展開することにあります。普段何気なく行っている「食べる」という行為が、どのような内的衝動と外的条件によって生成されたパターンであったのかを、中動態の世界でほどきなおして確認することにあります。再びパターンを構成するときに自由の濃度を高めようと努めることはできますが、それは無限にある選択肢のうちのひとつにすぎません。

自由と強制との複合によってあるとき生成されたオートプレイのパターンは、それがどのくらい自由であるか、ということとはまったく別の基準においてゲームプレイの行く末を左右します。もしもこのパターンがゲームにおいて適切でなかった場合―そう、たとえば劣悪な環境因子や、でたらめな攻略情報によって不適切に強制されている場合、逆に純粋に自由すぎるあまり「健康」的ではないといった場合には、それをいったん解体し、プレイヤーとしての本質とキャラクターとしての制約をすり合わせながら、新たなパターンを築き上げる必要があります。

それは自由を捨てることでも、強制を拒むことでもありません。なにを食べたいか、なにを食べられるか、なにを食べるべきかを絶妙にブレンドし、頻用するに足る強度を持つパターンが再構成されたとき、ゲームプレイはあらゆる側面においてうまくいくようになります。

そしてこの再構成の営みを、私は「治療」と呼んでいます。

(次で最後です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?