やりたいことばかり言わされるこんな世の中じゃ

どこもかしこもやりたいことを問うている。社会人になって色々経験しているならまだしも、中学高校から問われている。たまたまあったらいいけど、ないことに引け目を感じてる若者がいたら、だいぶ辛い。

大人だってある人の方が少ないのではないか。やっている仕事はたるけど、やりたいことをやってる人はいかほどいるのか。社長だってやりたくてやってる人は何割なのか。やりたくない時はある。

スタートのきっかけで、やっているうちに意義や意味を見出す場合も多いだろう。野球をやり始めた時も果たしてやりたかったのか。なんとなくやり始めて楽しくなって続いた。どこまで自分の意思が介在していたのか、甚だ疑問だ。営業職を楽しいと思っているけど、営業やりたくて新卒の会社に入社したわけではない。

やりたいことがある、やりたいことが必ず見つかる前提で話がスタートする。確かに、それを軸に話をするのは楽だ。採用面接でも教育でも。拠り所としては十分。だいたい誰かがやっているから事例もあるし。やりたいことが見つからず辛い経験が増えれば増えるほど、人のやりたいことを見つけることをやりたいというトートロジーみたいなことになってたりもする。見つけるのが辛いから役割としても必要になる。

やりたいことだって、「強度」とかあるだろう。にもかかわらず、メディアに出やすい事例は「覚悟を決める」「人生を賭ける」的なやりたいことをやり始めて、一定の成果を出した人がメインだ。

私がやりたくてやっているラップには、なんの覚悟もないし、誰からも何も期待されていないし、当たり前だが、人生も賭けない。それがダメということもないだろう。けど、授業とかだとダメと言われそう。

社会課題の授業は多い。先日、国際展示場で開催されたエコプロダクト展に行ったら修学旅行生がめっちゃいた。そういうことなのかと。やりたいことの"正解"が社会課題みたいになってしまったら、、、

偏差値偏重から「やりたいこと偏重」になっていて、なんか、すげぇ大変になってるんじゃないかとも思う。たまたま出会えたらいいけど、これも違うかなぁと思い始めたらめちゃ辛い。

そんな私も、やりたいことを重視しながら10年ぐらい会社の運営してみたけど、やりたいこと一本調子だとちとキツイんじゃないかと感じてきた。やりたいことを言わせて言質をとるみたいな。(これは、他人にも自分にも)まぁ、これが一概悪いわけじゃないとも思うんだけど、いつでも最良の策ではないよな、他の策も持ってないとなと。

ここで問題提起のまま終えてもいいんだが、ここで一つの考えを提示してみよう。中動態である。能動態と受動態、英語の文法でいきなり出てきて面食らったやつだが、昔のどっかの国では中動態なる態があったようで、中動態は字の通り、能動態と受動態の間の態とののと。(詳しくは國分 功一郎さんの「中動態の世界」)なんかこの態の存在を受け入れると、もうちょいうまくいきそうな気もする。(責任の所在を明確にするビジネスでは馴染まないシーンも多いだろうが)

みたなこと、スナックでカラオケやりながら話しましょう!

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