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恐れる育児-顔面偏差値という呪縛

社会の中で生きていく上で、容姿に優れていることは一つの武器になる。

容姿が全てではもちろんない。
だが、容姿が良いだけで得することはある。

手前味噌で大変恐縮だが、うちの赤子はかわいい。
世の中の母親はみんな自分の子が世界一可愛いと思うが言わせてほしい。

うちの赤子は本当にまじでかわいいのだ。
実際、見知らぬ人から褒められることが多い。

最もよく言われるのは、まつ毛が長い、である。

これを見てほしい。
赤子のまつ毛がたまたま抜けたので、私のものと並べてみたのだ。

マジかよ。
思わず声が漏れた。

私は普段ビューラーもマスカラもしないので、このまつ毛は特に痛んでるとかではない。

普通に健康な30女のまつ毛だ。
これまでの人生で自分のまつ毛が短いとは思ったことがないので、たぶん平均か平均よりちょっと長いレベルだと思う。

しかし生まれて1年経っていない赤子にほぼダブルスコアである。
マジかよ。

よく見ると太さも負けている。


次に言われるのは「ハーフっぽい」である。

日本社会におけるハーフっぽいという言葉は実に便利で曖昧なものだ。

ここでは好意的な意味で言ってくれていると思い込むことにする。

実を言うと、私も幼少時はハーフっぽいと言われていた。
顔立ちもさることながら、地毛が栗色に近い茶髪で巻き毛であることが大きな要因かと思う。

そして夫もハーフっぽいと言われている。
目が大きく鼻が高いハッキリとした顔立ちなのだ。

すなわち赤子は、ハーフっぽい父親とハーフっぽい母親から生まれたハーフっぽい赤子なのだ。
ハーフっぽいのハイブリッドである。


赤子は現在、私似とも夫似とも言われるのでどちらの要素がより強いかがわからない。
私の親族や友達は私に似ていると言うし、夫の親族は夫に似ていると言う。全くアテにならない。

私と夫は別に似ていないのだが、ハーフっぽいという括りでは近いのかもしれない。

知らない方から赤ちゃんモデルを勧められることも多い。

地方都市在住でそこまでの情熱もないので今のところ考えていないが、都内に住んでいたらもしかしたら周りに乗せられるままオムツモデルオーディションくらいは応募していたかもしれない。

褒めてもらえることは嬉しいのだが、「今が容姿のピークだったらどうしよう」という恐れが常に頭のどこかにある。

かわいかった子役が成長したらイマイチどころかむしろブス問題と同じ懸念である。

人生において赤子の時期は本当に短い。
重要なのはむしろ大人になってからだ。
赤ちゃんの時にかわいくなくても、大人になってから綺麗だ美人だと言われる方が100倍得ではないか。

だいたい赤ちゃんの時にカワイイというのは、目元がぱっちりしていればなんとかなりがちなものだと個人的には思っている。

赤子は生まれた瞬間から二重だったが、親はどちらも二重なのでそらまぁそうかというもんである。
それに大人になれば目元なんて正直化粧でなんとでもなる部位である。
アイプチとつけまつげさえあれば軽く盛れるのだ。

容姿において最も大事なのはバランスであり、
私は鼻が重要なパーツだと思っている。

鼻は隠しようも誤魔化しようもないのに、顔の真ん中に鎮座しているからだ。

しかし赤子の段階では、鼻というのは今後の予想がなかなかつかない。
ちょっと大きめな気がするし、ちょっと上向きな気もする。

私の父は子どもの頃、私を膝に乗せては「高くなれ〜高くなれ〜」と言いながら私の鼻をつまんだ。
今現在私の鼻が低くないのはそのお陰なのかどうなのかはわからないが、やりたくなる気持ちはなんとなくわかる。

赤子の鼻は小さくてかわいいのだが、それとは別に今後どうなるのかが気になるのは事実だ。

どこに行ってもアイドル扱いをしてもらっている赤子だが、正直いまチヤホヤしてもらっても、現状赤子自身にとってはなんの旨味もないのだ。思い出話をするにはいいかもしれないが、本人的には「イヤ、覚えてないし」だろう。

自我が芽生えてから褒めてもらえる方が本人的にはずっといい。

大抵の人は、赤子に対しては手放しに褒めてくれる。あまりに褒めてもらえるのでリアクションに困ってしまうほどだ。

日本社会の難しいところで、一応謙遜するのがマナーだと思うが、あの手この手で褒めてもらえるとこちらもリアクション謙遜ワードが尽きてくるのだ。

その際の最終手段は「でも大っきくなったらわかりませんからね」だ。
神童もハタチ過ぎたらただの人論法である。

どんな風に成長したとしても親にとってはカワイイに違いないと思うのだが、できることなら美しくなってほしいというのが本音だろう。

男の子の場合でも、やはりイケメンと言われれば親は嬉しいものではないだろうか。

別に女優やモデルやアイドルになってほしいわけでは全くない。
むしろそんな魑魅魍魎渦巻くところに赤子を入れるなんて恐ろしい。

双方の祖父母から、それぞれの幼少期と今の赤子を並べた画像が送られてきた。

たしかに似ている気がする。
とくに髪の毛が薄いところなどそっくりだ(そこかよ)

ということは、赤子をカワイイカワイイと親バカ丸出しに写真を撮りまくり、暇さえあれば赤子フォルダを眺めているのは自己愛の現れということなのだろうか。

他人の子にそこまでカワイイの洪水が起こることはない。
自分で子どもを産んでから他の赤ちゃんも可愛いなと思うようになったが、正直なところそれまではほとんど興味もなかった。

自分の子だからかわいいのはもちろんだが、
自分に似ているからかわいいと思うのだろうか。

もしくはパートナーに似ているからだろうか。


赤子の出産は破水からスタートして17時間ほどかかった。生まれた直後は出血が多かったせいかぼんやりしていてあまり覚えていない。
赤子を見た瞬間に「かわいい!私のベイビー」とか「生まれて来てくれてありがとう(涙)」とはならなかった。

初めて抱っこさせてもらったとき、「お…おう…えっと…はじめまして…?」となんかよくわからないことを言った気がする。
生まれる前に心配していた生まれた直後は頭が長いというやつも気にならなかったというかそんなこと見ていなかった。長い出産がようやく終わって、早よ休ませてくれとただそれだけだったと思う。

赤子はよく飲みよく寝てあまり泣かない子だった。普通に育てやすい子だったと思う。
それでも小さめに生まれたのもあって本当に脆くて壊れそうだった。

それに生まれたての赤子というのはなにしろ声掛けに反応もしなければ自分で動くというより反射的に手がウヨウヨ動いてるだけで人間や動物というよりむしろ無機物感がある。

かわいいー!チューさせろー!!
となるのは、やはり笑ったり声掛けに反応をしてから湧いて来た感情のような気がする。

それまでは「気を抜けばこの生物は死ぬ…!」という緊張感が圧倒的に優っていた。
母性というものがどの段階で発生するものなのかはよくわからない。というか今の段階でも母性というものが出ているのかはわからない。

わかるのは(自分の)赤子がただめちゃくちゃかわいい存在であるということである。

まぁいいか。
目だけ大きいけどイマイチなお顔になったとしても、きっとそれはご愛嬌というやつだ。

#育児 #子育て #エッセイ


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