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不登校からの、自分の道を選び進むこと。

私は不登校児だった。
小学校はまだ遅刻程度だったが、それも3時間目をすぎた頃に
ようやくやってくる。という社長出勤だ。
授業中に教室に入ると、皆の視線が痛いので
私はキーホルダー型の時計をカバンにつけて登校していた。
(もちろん、当時の学校では時計を持ってくることは禁止だ)

そして、姉が中学受験を始めた頃には、姉と一緒に居たいという思いから
私も塾に行くようになり、学校の授業は受けなくても
毎回満点近くをとる。
先生に嫌われる生徒だった。

しかし、姉の中学受験が合格というかたちで終わり、
塾に居場所がなくなり始めると、しだいに塾に行かなくなり
ついには母に「地域で一番の高校に行きます」と念書を書かされ、
自由の身となった私は、社長出勤をしながら、放課後は
友達と遊びまくる。という
なんとも気ままな生活をしていたのである。

転機が訪れたのは中学生になってからだ。
初めての部活動で、たまたま入部した部活動のルールが厳しく、
でも、友達が小学校からの友達がいるから……。
と辞めるに辞めれず、技術が上がることもなく
ズルズルと部活と学業に勤しんでいたら

母が難病になった。

正確な余命は両家の親も交えての場ができてからだったが、
おおよそ3〜5年と調べたら書いてあった。

その頃、学校では、担任と生徒の2者面談があり、
私は「他の生徒に言わないこと」を条件に、母の病気のことを話した。

2学期も始まり文化祭の出し物は展示物が1年生の課題で
午後の時間を使って皆で作業していた。
しかし、私はその日、ようやく両家の親が集まり
余命宣告やら、今後の介護やら、治療方針やら何やらを
聞きに行かなくてはならず、学校を早退した。

そして母のことを聞いて、疲れて家に帰ると
仲の良い友達からメールが来ていて
「担任があんたのお母さんのこと皆の前で話したけど…。」
とあった。
詳しく書くと、まあ私の居ない間に
「あいつ(私)ってヲタクやんな〜」と男子が話していたのを
私の悪口と勘違いした担任が
「あの子(私)のお母さんは難病で大変なんだから!!」と
それはそれは、廊下まで聞こえる声で怒鳴ったらしい。

私は親が亡くなった友達を既に2人知っている。
どちらも急死だった。お葬式こそ行く仲ではなかったが
親が急死しても、頑張って日々を過ごしている友達を知っているので
じわじわと死に向かってくだけの方が、マシなのでは?と思っていた。
それを、まあ、担任に話した私も悪いのだか、クラス中に暴露された。

次の日、いつも通り私が部活の朝練を終えてクラスに入ると
今まで一度も話したことのないクラスメイトが駆け寄って来て
「何かあったら、何でも話してね。私でも力になるから!」
と、漫画の読みすぎではないだろうか。と思う言葉をかけられ

あ、もうここに居たくない。

そう思い、部活の前に先輩たちに母の病気のことを話し
母を理由にして、学校に行かなないという選択をした。

そうやって、私は引きこもりになり
母の病気が悪化するにつれて
「母の死を見るくらいなら、先に私が居なくなった方がいい」と
自殺願望が芽生え、引きこもりになり、摂食障害や
市販薬でのオーバードーズを繰り返した。

しかし、私は恵まれていたこともある。
それまでの進学塾はさすがに、授業に出てないと追いつけなくなり
また、不登校なのに塾に来ていることが負い目になり辞めてしまったが
友達に、個別指導のある塾を紹介してもらい、
5教科とも、絶対に大人数の授業ではなく、個別指導で
をお願いして、塾には通っていた。

そして、定期テストの日だけ学校に行き
テストを受けて、全科目のテストが返却されたら、
放課後、学校に行き一人一人、先生からテストを返してもらう。

塾に通っていたおかけで、こちらも小学校同様
平均点を大幅に超えた点数で
返却の際、先生から怒られることもなく、先生は渋い顔をして
私に答案用紙を返却した。 ざまあ見ろである。

高校進学はしたくなかったが、母が強く勧めるのと
塾の先生からの後押しもあり
今の中学校から、誰も行かない学校を選んで、合格した。

さて、これで高校デビューである。
誰も私が不登校だったことを知らない、母が難病のことも知らない。
そんな場所だが、私は学校というものが窮屈に感じていて、
つまりは、いつも斜に構えた態度で、一人で過ごしていた。

そんなとき、パソコンを使った情報の授業で
3人グループになって、好きなことをテーマに
パワーポイントで発表をするという課題を出された。

皆は、好きな友達とグループになりたい!と先生に言い
先生は「誰か一人でもグループに入れなかったら、先生が決めるからな」
と言って、黙ってしまった。

さて、斜に構えた私に誰から声がかかるだろう。
答えは否。教室中が盛り上がりを見せる中、
頃合いか。と
自分の席を立ち
「先生、私グループに入れないので先生が決めてください」
と、この場の空気をぶっ壊してやる。と先生の元に行くと

「あ、◯◯さん(私)は、ここのグループやから」
と指定された。
自らは好きな者とグループになり、他は適当に集めておけばいい。
そういう人間がいることに、私は驚いたが、
仕方なく、言われたグループで作業をするも

一向に進まない。1時間なんてすぐに終わった。
最後に今日の進捗をプリントに書かなければならなくなり、
適当に決めた内容を書いて提出する時

「先生、私がメインで進めて、他の子に作業を振り分ける形式にしてもいいですか?」と聞いた

「お前、そんなんじゃ社会に出られへんぞ」

言いたいことは、今ならわかる、だけど私は限界だった。
次の日から、私はまた学校に行かない選択をした。

留年が確定した10月過ぎ、
私はこのままニートで生きて行くのかと、中学時代に
タンス預金から銀行への定期預金にした金額を見ながら、
中卒で雇ってくれる会社を検索するも、どこも怪しい企業ばかりだった

姉は姉で、中学受験をしたものの、高校に入ってから不登校になり
我が家の暗黒期がやってきていた。

学校に通わず、高校卒業資格を取る方法がないか調べ始めた。
どこの通信制学校も、月に最低1、2回は通わなくてはならない。
それではダメだ、行かなくなってお終いだ。
そんなときに見つけたのが、屋久島おおぞら高校だった。

そもそも屋久島がどこにあるのかも知らなかったが
分校と本校があり、某通信教育のように、筆記の提出物を
郵送で送り、1年分の筆記提出物が合格とされたら
屋久島でホームルームの単位を取る。というものだった。
屋久島というだけあって、いざ行ってしまえば
牢屋に閉じ込められたも同じ。時が来るまで島から出れないのである。

分校にアポをとり、一人で入学説明を受けに行った。
本当に分校に通わず、通信のレポート教材と屋久島での生活で
卒業資格が取れるのか、何度も聞いた。
留年が決まった学校の担任も資料請求などしてくれ
編入ではなく、転校。という形を取れば
後々の履歴書にも、あまり響かないだろうとのことだった。

こうして、私は転校というかたちで、分校には一切通わず、
通信教材の課題と、8泊9日のスクーリング3年間を選択した。

屋久島のスクーリングでは、ほとんど誰とも話さず
ご飯も一人で食べ(一人でいると、なぜか先生が集まってくる)
朝は当直の先生を6時に叩き起こし、遠くに見える海と朝日を見て、
夜は小さな図書室に一人篭って、村上春樹と南條あやさんの
「卒業式まで死にません」を読んで日々を過ごした。

前の高校が進学校だったため、授業やテストは簡単だった。
とにかく高校卒業資格がもらえれば良いと思っていた。

クラスメイトたちとは仲良くできなかったが、
先生たちとはとても仲良くなった。
暇があれば職員室に行き、グループワークで前の学校と同じ失敗をしても
先生は私を責めず「それは君の良いところだよ」と言ってくれた。

写真を好きになったのも、先生が一眼レフカメラを持って
白谷雲水峡への課外授業に行った時に、カメラを貸してもらい
こんなに綺麗に撮れるんだ。と感動したからである。

大学や専門学校に進学するつもりはさらさらなかったので
私は、この空気の澄んだ美しい島で
家族と離れて過ごし、一人の時間を満喫することができた。

そのおかげか、今でも一人で過ごしていて苦ではないし、
ソロ活も幅広く展開して行っている。

小、中、高と不登校だったが
それはそれで良い経験だったし、選択を間違えたとは思っていない。
特に、高校の留年からの転校で、自分の将来について
誰かに言われたから、進学などをするのではなく
自分で見つけ出した場所で、自分の力で頑張るということができたのは
とても良かったと思っている。

自分の道は自分で見つけること、
その選択に自分で責任を持つこと、
10代のうちにこのことを学べて、本当に良かったと思っている。

※現在の屋久島おおぞら高校が、私の時と同じシステムで卒業できるかは
わかりません。学校の規模も大きくなり、オンラインでの授業も
あるみたいですので、あくまで、私の当時の事例です。


#あの選択をしたから

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