暇と退屈の倫理学

今月も本を読んだ。続けられるかわからないけど、読んだ本の感想と、得たものを記録してみようと思う。

経緯

4月はこの本を読んだ。購入したきっかけはYoutubeでさまざまな人が紹介しており、興味が沸いたからだ。現在、仕事、プライベート共に暇に感じる時間が多く、その解決策はあるのか、なぜそう感じるのかを哲学的な観点で知りたくなり、この本に書いてありそうなことを知り購入してみた。

所感

同じようなことが気になった人は読んでみて欲しい。この記事には自分なりの結論を書いてみようと思うが、本を読まずに記事を読んだだけで理解したつもりになられても困る。まだ確固とした結論は出ていないが、この本に書かれていることを知れた、すぐにどこを読み返せば良いかわかっただけでも読んだ価値はあると思う。

序章 「好きなこと」とは何か?

「好きなこと」は何なんだろう。ラッセルは革命が起こった国の若者は不幸である。なぜならそこには創造するべき新世界がなく、あまりやるべきことがないから不幸である。というようなことを言ったらしい。確かに賛同できるが、筆者と同じようにそれで良いのかと思った。社会が豊かになればなるほど、その社会に生きる人は不幸になってしまう。だから、豊かになった時間で好きなことをすれば良い。じゃあ「好きなこと」は何なんだろう。

今の消費社会ではSNSや様々な広告で「好きなこと」らしきものが大々的に主張されている。しかし、本当にそれらが好きなんだろうか。広告を見て知ったから、他の人が持っていて羨ましいと思ったから、そんなものだと思う。筆者もカタログ化した趣味と言っていた。

このように現代では可処分時間をどう搾取するか企業がAIやらアルゴリズムを駆使して競っている。その実験道具として生きていくのは本当の意味で豊かなんだろうか。一時的な興奮、快楽を得られるが、振り返った時に何もない人生、画面を見続け、その中の動きに興奮しただけの人生になってしまわないだろうか。それは豊かではないと思う。

じゃあどうすれば良いか。が次の章以降に書かれている。この章でも少し触れられていたが、なぜそうなったかを理解せずに結論づけても意味がない。

第一章 暇と退屈の原理論

原理として、人はじっとしていられない。退屈に耐えられない生き物であるらしい。これには納得がいく。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている

パスカル

パスカルはこう考えているらしい。確かに納得できる。人は部屋でじっとしている退屈に耐えられず、どこかに気晴らしに行き、何か不幸を招く。

もう一つこの章を象徴するエピソードがあった。ウサギ狩りの話だ。欲望の対象と原因の原因が入れ違いになっているという今の社会にも通づる話だったが、結論には西洋的な思想なためあまり納得いかなかった。自分だったら
「神への信仰」ではなく「感謝する」としただろうか。

他にも色々な人の考えを比較したりしながら暇と退屈の倫理学の前提を鮮やかに作り上げていた章だった。

第二章 暇と退屈の系譜学

ではなぜ暇と退屈ができるようになったのか。この章では歴史からではなく論理からこの謎を紐解いていた。

人は遥か昔は遊動生活をしていたらしい。しかし天候、環境の変化により定住生活を始め、遊動生活で行っていた環境適応をする手間がなくなり、習慣を得た。そして時間があまり、暇と退屈を感じるようになったと本には書かれていた。

第三章 暇と退屈の経済史

かつて暇は有閑階級に独占されていた。労働階級に暇を感じる余裕はなく、恒常的に暇を享受できるのは限られた人達だけであった。
しかし、革命によってかつて労働階級だった人たちも暇を享受できるようになり、空いた時間何をしようか分からなくなり、退屈を感じるようになった。

上記の中で暇を独占していた時期の有閑階級の人々の過ごし方に暇と退屈の過ごし方の正解があるように思えた。

第四章 暇と退屈の疎外論

消費と浪費、どちらが良いと聞かれたら、消費の方が良さそうに聞こえる。
だが、消費には際限がない。現在は消費社会である。物を消費しているのではなく、観念や意味を消費している。ブランドという観念や〇〇が使っているという意味である。悪いことではなし、楽しく生きるために必要とも思うが、際限がない。自分も心当たりがありすぎて嫌になる。
だが、浪費は限界がある。必要以上に物を受け取る、吸収することだからである。だから消費には際限がないが、浪費は満足をもたらす。

そしてもう一つこの章では「疎外」という言葉について考察を深めている。完全に理解できている自信はない。歴史と様々な人が複雑に絡み合い、「本来性なき疎外」という考え方を導いていた。改めて見返すと全然分からない、また読み返してみよう。

第五章 暇と退屈の哲学

退屈には三つの形式があるらしい。

  • 退屈の第一形式(時間による引き止め、空虚放置)

  • 退屈の第二形式(退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている状態)

  • 退屈の第三形式(なんとなく退屈だ。)

それぞれ、エピソードを読むと確かに経験したことはあるし、わかる。そして、ハイデッガーはこの第三形式において決断することで人間は自由になれると言ったらしい。

ハイデッガーの言うことは分かる。しかし、完全に同意とは言えない。筆者も同じように考えており、次の章でそれを解説してくれていた。

第六章 暇と退屈の人間学

ハイデッガーは”人間は”という前提条件において退屈の第三形式を決断により乗り越え、自由になれると言った。この章ではそれを否定し、人間と動物の違いを環世界移動能力の相対的な差であると定義した。

それぞれの生き物、個体には環世界というものが存在し、人間はその環世界を他の動物と比べ移動する能力が遥かに高いというものだった。確かに言語や色々な情報を取り入れ、人は環世界を広げたり、移動したりすることが容易だと思う。比べて動物は特有の言語を持つものもあるが、人間と比べるとできることが少なく、環世界を移動するのは相当な訓練が必要またはそもそもできないのではないかと思う。

上記の条件のもと、次の章へ進む。

第七章 暇と退屈の倫理学

そして、ハイデッガーの結論である”決断することによって自由になれる”ということにも本章では指摘をした。決断によってそれ以外のことを断ち切ることで本当に自由になれるのだろうか。
決断してそのことに執着することは一つのことに事にとりさらわれている状態(決断の奴隷状態)であり、退屈の第一形式と同じではないかというのが筆者の主張だった。そこで第一形式=第三形式とした。
それでは第二形式はどうだろうか。特殊な第二形式であるが、人間は概ねここにいる。

時たま第一形式=第三形式に行っては、第二形式に戻り、退屈をまた気晴らしと共に感じる。人間であることはつらいことであるのだ。

これが分かっただけでも救われた気がした。

結論

まずはこの本を通読できたこと、暇と退屈について理解が得られたことが一つの大きな価値であると書かれていた。
そして物を受け取れるようになり、楽しみ、思考しよう、ということ。
最後にどういうもの動物になることを発生させるか知り、待ち構えることができるようになろう。というものだった。

本書の中の言葉を使って書いたが、整理するとこういうことだと思う。
暇と退屈を感じるのは当たり前であり、うまく付き合うためにその成り立ちや論理を理解しよう。
観念ではなく、物を受け取れるようになろう。そしてそれを楽しめるように普段から色々なことを観察し、考えてみよう。
どういうこと、ものが本能的に好きか色々と経験してみることで自分の琴線に触れるものを学び、それがよく現れるところに身を置くようにしよう。

少しモヤモヤが晴れたような気がする。
やっぱり、大事なものは簡単に手に入らないんだなと今思った。何をすれば良いという話ではなく、具体的な解決策は人それぞれで、それを見つけた人から幸せになっていくんだと思う。

終わりに

何が動物になることを発生させるのか、今もよく分からない。自分は何に興奮し、何をするときに動物的になるのか。
これからも日常や非日常を過ごしていく中で何に心が動くのか気にしながらその答えを見つけていきたい。

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