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時代の共鳴と重なりと……第7回読書会感想

今回は、シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」を取り上げました。本書は発表することを前提としたものではなく、ヴェイユその人が自身の極めて内的な部分への思索の軌跡ともいえるものです。そうであるが故に、平易な理解が難しいものともなっています。個人的には、「重力と恩寵」の他のテクストを併読する中で、ヴェイユの断片的な思想の一端が見えてくるのではないかと思います。
ヴェイユ自身の生き方というものは非常に禁欲的かつ非妥協的で、宗教と政治的行動・活動とに費やされたものでした。それは祖国フランスを離れた後でもフランスで支給されている以上の食料を取らず、虚弱体質にも関わらず女工として過酷な工場労働に従事した経歴から見ても伺えることです。
こうした生き方をベースとした文章というものは、読んでいて非常に「苦しい」ものとなります。それは義務的、禁欲的なものであり、ある種の強迫的な趣きすらあるからです。
ヴェイユの文章を文学的側面から読んでみると、長生きのできる人の書くものではないとの印象を受けます。それは義務的、禁欲的なものを極限まで突き詰めた人間の持つ、病的な純粋さ純真さというものをそこに宿しているからです。ヴェイユの魅力はそこにあるともいえます。
ヴェイユの思想の特徴とは、弱者への眼差しとそういった人々の中にヴェイユ自身が見いだす希望のようなものです。個人的には、ヴェイユは経歴としてはエリートであり優秀な人であることは間違いのないものです。高等師範学校を出て、20代で哲学教授の資格を得ます。ですが、社会的存在としては彼女自身もまた弱者と言えるでしょう。そして、高学歴の哲学教師という属性も、現代的文脈とはまた異なったものとして捉えるならば、女性で高学歴というものもある種の「弱さ」として作用したかもしれません。ただ、ヴェイユ自身は一切の妥協をせず精力的に活動をしてくのですが。
またヴェイユのテクストと生涯を精神病理的な文脈でみていくと、その躁的にも見える過活動と食行動の制限とは摂食障害を思わせると個人的には思います。これは個人的な見方をでるものではありませんが、ヴェイユの思想の持つ特有の透徹さと苦しさというものは、ある種病的次元によって支えられている、ともいえないでしょうか?
ヴェイユが生きたのは第二次世界大戦中のことで、彼女は戦争の最中に数々の論文や文章を残しています。ヴェイユの思想は体系だったものではなく、断想や断章、断片といった趣きが強いもので、それがヴェイユ哲学の総覧を困難にしている一因なのですが、それはヴェイユ自身が自ら行動する中で思索を深めていったことと無関係ではないでしょう。「工場日記」を読むと、極限の疲労の中にあってもヴェイユの本質とは「思考する存在」であったのだと思います。そして、ヴェイユの思想の下敷きとなっている第二次世界大戦中という背景と、ロシアのウクライナ侵攻の現実というものは、不気味な重なりとなって私たちの前に現れているとも言えます。およそ100年前と人間の本質というものは変わらずあるのかと、暗澹とした気持ちに駆られてしまいます。ヴェイユのテクストを現代的に読み直す過程で、従来であればコロナウイルスというものが主流であったものが、20世紀的手法が21世紀にもリアルタイムで展開されているというこの不気味なリンクというものを感じずにはいられませんでした。
また「時代の病」とでもいうべきものについても語りました。それはどのようなものでもコンテンツ化されてしまう現象です。一つは、いわゆる文学や哲学といったものすらファッションや「見られる」ものとして消費され、その上澄みだけの理解というものの流行です。結果として「浅い読み、理解」といったものによってテクストへの本質的理解というものが忘れ去られていくことの虚しさです。もう一つは、個人や個性といった本来であれば「それ以上解体できないもの」ですら、還元可能にしてしまうものです。あらゆるものを消費材としてしまう現象は「時代の病」といえるものだと思います。ヴェイユの思想もそうした文脈で消費されていくことも一方では考えざるを得ない、とも思います。そして、そうしたことを可能にする知性の在り方とは一体なんであろうか、という点も考えるわけです。
ヴェイユの言う重力とは私たちを捕らえて離さない耐えざる重み=本質的不幸であり、苦痛です。では、そこから私たちはいかに救われるのでしょうか?ヴェイユはそのことを宗教と政治的活動とによって明らかにしようとしたものの、道半ばで斃れたといってよいでしょう。それは社会全体に向けられたものとしてというよりは、極めて内的な内省的な思索の軌跡という形によって現代に受け継がれています。
これをもってヴェイユの思想を理解したとは当然思わないのですが、彼女も弱者であり私自身もまた弱者であるわけです。ヴェイユの思想と共鳴する魂とでも言うような領域があり、それは間違いなく知覚されるものです。
これは一つの強さであり、そこに希望というものがあるような気がしました。

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