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日本社会と現代的人間について

「中井久夫集1」を読了した。通読して思うことは、日本社会、あるいは時代といったものにある特有の空気についてである。それを私は息苦しさを持って読んだわけだが、この「息苦しさ」というものは漠然として捉え難いものとして長年私の中にあったものだ。満たされているようで、なにか根源的な部分では何一つ満たされていない、精神的な孤児のような渇望感と共に今もあると感じる。
その渇望とは、おそらく「実感のなさ」に起因するのだろうと思う。実在感といっても良いかもしれない。その実感とは、「いまここで生きている」というものである。
人は単独で生きることはできない。集団と、他者との関係性の中においてその自己意識というものも育まれていく。「私」という意識は固有のものであるが、それは独立し、単独な次元でのみ培われるものではない。他者という「私」以外とのフィルターを通して、それは次第に形作られていくものなのだ。その他者との関係性が近代日本においてどのようになされてきたのかはここでは重要なファクターであろう。そうした視点から「私」という実在感の乏しさ、あるいは生の実感の乏しさというものを再検討するならば、時代の変遷によって、この「実感のなさ/実在感のなさ」は必然的な現象であったのではないかと思えてくる。
中井は「現代社会に生きること」において、以下のように書いている。


われわれが幼かった二、三〇年前までは、どの村や町にも一人か二人はいた、無害で善良な、少し知恵の足りない人たちはどこへ行ったのだろうか。あれは、精度の低い、ゆとりのある社会の中の存在だった。人々は、けっこう好意的な微笑をもって彼らをふり返り、かれらは店の手伝いを気まぐれにやらせてもらったりして、ふしぎに食いつめずに生きており、その街の一種の名士にまでなりおおせていたものだった。いま、かれらが街頭に立ち現れたとしても、子どもたちですら、かれらを振り返り見るだろうか。


これは中井の幼い頃であったから、今より半世紀以上昔の日本社会のことを指していると思われる。「少し知恵の足りない」というと、直接的に捉えるならば今でいうような「知的障害」や「発達障害」に近いものであると思うが、「精度の低い、ゆとりのある社会の中の存在」であるとの中井の言葉は興味深いものである。ここから、私は狭義の意味で「少し知恵の足りない人」を捉えるのではなく、より広義のそして障害の有無に関係なく、「社会の生み出した」存在としての「彼ら」として理解するならば、この「少し知恵の足らない人」とは社会の規定するルートからやや外れた、あるいはそこにはなから乗ろうとしていない存在であると捉えることができる。そして同時にそれは社会それ自体が存在することを「許した」ものでもあるといえる。その存在の在り方は曖昧で境界的なものである。だが「少し知恵の足らない」という牧歌的な福祉要素も含む背景を通して、それは「ごく当たり前の風景」、「隣人」としてそこにある。彼らが存在し続けられたのは、諸々の社会制度は当然として、(ただ中井の視点はそこに重きを置いていないようだが)社会を構成する人々の間にある「好意的な微笑」を持ってしてであった。ここに、独特な対人関係の在り方が浮かび上がってくる。彼らは数多の人々の助けがなければ生きていけない存在であるが、彼らを助けている/施している側も同時に彼らの存在がなければ、一つの共同体として成立し得ない構造を持っていた。地縁・血縁というものを基礎構造とし、そこから同心円状に広がってゆく関心と繋がりは悪く言えば相互監視の趣きがあるが、相互援助という構造も持ち合わせていたのではないだろうか。そして、それは言い換えれば相互依存の関係でもある。そして、それらはインフォーマルな極めて自然な形で行われたのではないだろうか。これは文化の問題もはらむものであり、単純な善悪では語れないものであるが、中井の言葉はこの時代というものを懐かしく見ているようにも見える。対して現代という時代に向けられた中井の言葉はどこか冷たく、悲壮感が漂う。


「正常であれ」という非情な要求、そうして、現代の人間として落伍しないために「自分は正常であろうか」とつぶやきつづける人間、なぜなら高度に組織された社会からの落伍はそうでない社会からよりも、はるかに徹底的で救いのないものであろうから、これは、現代の一つの縮図と言えないであろうか。


「現代の人間」というものに、「少し知恵の足らない」部分は想定されていない。それは「異常」な要素として、隔離され管理をされるものとなる。それは社会の主流から外れることを意味しており、かつての社会のようにそうした「傍流」への「好意的な微妙」というものが失われた今、人々は「正常であり続けたい」「あり続けなければならない」と、一種強迫的な生を生きている。この強迫的な生こそが、精神疾患を生み出す一つの種として私たちに植わっているものではないか。中井は暗にそのことを批判的に見ていたのではないかと思う。

なぜ、私たちはそんな風に生きなければならないのか?
なぜ、この社会はそのような「現代的人間」をしか許容できないのか?

直接的な言及はないものの、間接的にこうした問いが自然と浮かび上がってくる。
「現代的人間」の病理性は、その許容される範囲の狭さにおいて特徴がある。家庭生活、学校、社会と失敗の許容のない選択と行動とが当たり前に求められ続ける。こうした緊張に耐えられる人間でなければ、あたかも社会の中に存在をしないかのように扱われる。
そして、多くの人々はこの価値観を内面化し適応する。ゆえに社会の持つ病理的な強迫性はますます強化をされていく。
核家族化の過程で、地方の過疎化、都市への一極集中は進んだ。一人一人の匿名性が高くなると同時に、対人関係の希薄化、個人主義や自己責任論が叫ばれるようになり、社会は高度に組織化された。家庭内で完結していた、子育て、教育、介護というものが外注化され、専門職が担うものとなると、より一層、人間の原始的なコミュニティの持つ力というものは空洞化した。
まるで日本社会そのものが巨大な株式会社のような構造を持つようになると、それを構成しているのはもはや人ではなく、一つ一つの部品と相違ないものとなっていく。そして、機能すべき時に機能できない存在というものは、顧みられなくなっていく。中井の指摘したように、「子どもですら振り返って」見ようとしなくなるのも当然な社会が出来上がっていく。
そこで暮らす人々はどのような実感を持つのだろうか。社会そのものが、原始的な生の実感を想定していない中では、人々は「部品のように」存在するしかなくなっていく。
ここでは、生身の体験や実感というものが極度に疎外をされていく。人々は「疎外をされている」ということすら、実感しなくなって久しいのではないだろうか。それらは一つの時代の特徴として表出されている。
中井の友人の言として、興味深いものがある。


……ある友人は、東京に移り住んだ体験をこのように語る。「久しぶりに京都へ行って、市電に乗った。するとね、不思議なんだ。乗客のあいだに何か交感がある。赤の他人のはずなのに感情の交流がある。石ころと違ったものとして、触れ合っている。東京では、そうじゃない。電車の方も石ころを運んでいるつもり、こちらのほうも、運ばれているあいだは、死んだも同然。「存在すること」を止めている。京都に住んでいた時は、ああいう、低音の交感など気づきもしなかったがねえ」


「存在することを止めている」とはどういうことなのだろう。実在感の放棄を、主体が自ら行うこと。それは既に、一つの社会システムとなって生活の中に組み込まれているのかもしれない。その証左に、電車という極めて日常的な風景の中にそれは見出されるのだ。この何気ない、瑣末な瞬間における気づき、繊細な反応というものは、恐らく現代日本人が喪失したものの、最も大きなものかもしれない。そして、それらを「喪失しなければ」この社会の中で現代的人間として存在し続けることはできない。
逆に言えば「存在する」ためには、他者との「交感」がなければ難しいということだ。電車のように、私たちは無機物に接するかのごとく、他者との関係性を築いていないだろうか。より深刻なのは、その土台となる社会や共同体の側が生身の交感というものに無関心な点である。中井は「疎外」という視点からこれを読み解いていく。


おそらく、「疎外」のいちばん奥深く、目に見えない形は、「基本的な体験からの疎外」ではなかろうか。われわれは、この否定的な潮の流れに対して何かを対抗させながら、つまらないものに足をとられずまた生きがいを求める人間の底力を放棄せずに、自分の人生を組織してゆくべきだろうか。それは現代の人間に課せられた最大の課題であり、社会の基本的な未来像を含む、「人間的なものの一切」は、この課題と無縁ではあり得ないだろう。


「基本的な体験」は、人が生きていく中で、あるいは社会の中て入っていく過程の中で経験するあらゆるものを含むのではないだろうか。他者の感情や自意識といったものまで、インターネットやデジタル空間で追体験することは可能なことである。実際にその場面に行かなくても、原理上はあらゆる体験をすることができる。逆説的だが、「なれる自分」、「できること」が多すぎて、「基本的な体験」から疎外をされていく。中井の言葉は、不気味にも現代というものが置かれている社会環境と奇妙に符号をしている。中井は現代的人間の精神性というものに、その萌芽を見ていたのかもしれない。実感のなさ、実在感のなさ、境界的存在への不寛容と、基本的体験への疎外……これらがもたらすものとはなんだろうか。
自殺や引きこもり、精神疾患の増加と格差の拡大、可視化されない貧困やセルフネグレクトなどの社会問題が論じられる時、「なぜ豊かになったはずの日本で」とはよく言われる。
「私たちは本当に豊かなのだろうか」、「豊かさとは一体なんなのだろうか」という根本的な問いを置き去りにして、個人主義と自己責任論が急進的に進んでいく社会は限界を迎えているようにも思う。
何処かへ行ってしまった「少し知恵の足りない人々」は、そのまま一つの時代の喪失というものを暗示していたのだろうと思う。そうなのだとすれば、現代的人間の無関心と実在感の喪失もまた、一つの時代の象徴であるのだと思う。その中で私が抱える実感のなさというものは、何か足掻きのようなものなのだと気がつく。それを抱えることは苦しいことでもあるけれど、それすらも感じなくなった時、私は現代的人間となってしまうのだろうと、考える。

引用:「中井久夫集1」より「現代社会に生きること」

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