リカレント

社会人4年目というのは、私からするとまだまだひよっこだろうと思う。けれど意図せずに、「もう周りを引っ張る側だから」と言われて、なんとなく納得できずにいた。よく聞く「中堅層」という単語も腑に落ちなくて、調べてみると「役職についていない3年〜4年目の社員」という範囲なのだそうだ。私はその4年目にあたるけれど、まだ自分がそんな位置にいることの実感はあまりない。
「学び」ということで言うならば、まだまだ学ばないといけないことはたくさんあるなぁと年々思う。そして、学びたいことは年々増えていくばかりだ。
面白い数字があるのだが、(確かOECDだったかな)労働における生産性で、日本はギリシャとほぼ同じくらいだそうだ。ギリシャはヨーロッパの中では最も労働生産性の低いグループで、日本はG7の中では最低の労働生産力だった。そんな日本がもう一つ諸外国に比べて低いのが、社会人の修士・博士号取得者数だ。日本は社会構造的に欧米ほど修士や博士号がキャリアアップや所得増に繋がりにくいという特色はあるものの、社会に出てから仕事以外の勉強を行う人の割合はやはり低い。その日本では、労働生産性も低いことの意味は何だろう。なんの関係もないことなのだろうか?
仕事以外の選択肢や知識を持たない人間の集団とは、本当の意味で豊かさや生産力というものを持てるのだろうか。私はこの辺りについて、やはり「学び」、特に働く中での「学び」はその人の仕事の質にも決定的に作用すると考えている。
そこで思うことは、人は学ぶことをやめた時、あるいは考えるということをやめた時、単なる家畜と変わらなくなるのだということだ。組織や社会というものは、なるべく人々にものを考えさせないように仕向けている。教育というものは、余程注意をするか、それが洗練されたものでない限り、人を画一化させ学習させた行動しか取らせないための手段として往々にして使われる。誤解してはならないのは、ここでいう教育とは外部から強制された学びのことを指すことだ。主体的な教育(学び)は、生きる行為を豊かにし、感性を磨き、やがて知性を厚くしていく。本来の意味でのアクティブ・ラーニングとは、恐らく後者の方を指すのだろう。
私はそういった意味での学びを、働きだしてからより一層大切なものだと実感をしている。教養というのだろうか、単なる知識ではなくそれがやがて「生きる力」になるような学びというものこそ、本当に必要なものなのだと思う。


歴史の転換点には、感染症があったと言っても過言ではない。ペストやスペイン風邪が引き合いに出されるが、今回のCOVIT-19を見ていても思う。もはや、物理的な空間や場所、地理にかつてほどの意味や重みは与えられなくなりつつあると思う。そこには、また新たな意味や重みと価値の再発見が今後数年で急速になされていくと思う。そして、同時にそうした急速な変化について来られない人間は、格差社会の中で切り捨てられていくことも私は予感をしている。教育格差というものが叫ばれて久しいが、それは不都合で不愉快な真実を表してもいる。親の学歴と年収が、子どもの学歴と生涯年収まで決定する要素となっていることは知られている。日本は一億総中流などと言われてきたが、欧米と変わらない階級社会、格差社会になるのにそう時間はかからないだろうと思う。今後5年、アフター・パンデミックの中で間違いなく社会と時代は大きく変わっていくだろう。
否応なく変化していく時代の中で、いかに生きることができるのだろうか?
人が真に人であり続けるためには、主体的な思考と学び、そこから育まれる知性と積み重なっていく教養によってしか得られない。
それは学び続けることによって、成し遂げられるだろうと私は思う。社会に出てからの学び、つまりリカレント教育の本質はここにある。

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