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「中井久夫集Ⅰ 働く患者」「現代における生きがい」「サラリーマン労働」の精読を終えて……

先日の「中井久夫研究会」において、「現代における生きがい」「サラリーマン労働」の精読を終えた。
今回はかなり色々と示唆的なやり取りをすることができた。
冒頭、「現代における生きがい」から開始した。まず整理したいのは、ここにおける「現代」とは執筆をされた1964年であるということだ。社会的には高度経済成長の入口にあり、右肩上がりの時代の雰囲気の中にあったことは想像に難くない。そして、この「生きがい」という言葉を一般的にしたのは中井と同じく精神科医であった神谷美恵子の手によるものである。だが、彼女が「生きがい」という現象を見出すのは国策として隔離政策を取られていたハンセン病患者たちの暮らす療養所や姿であった点も非常に示唆的であると思う。折しも高度経済成長期の只中にあり、私たちが「今を生きている」という意味での「現代」にも通じる基盤がまさに築かれようとする時代にあって、中井の本文は書かれたことに注目をしたい。しかし、本文のテーマである「生きがい」というものはなかなか公に登場もしないし、言及もわずかである。ここに、中井の文体の大きな特徴があると思う。説教的でなく、静かに穏やかであるが、予言的であり、古臭くないのである。
私が本文中で最も印象に残った箇所は以下である。

人間が人間であるぎりぎりのものは、個人の自我の主体性に求めるより他はなく、具体的には、社会はそのような個人の集まり以外の何ものでもない。人間がと社会との関係はこのような互いに矛盾した緊張関係である。ことに資本主義社会の成立以来、社会の自己運動は、地すべり的に烈しくなり、人間と自然、人間と社会との関係が激変をこうむり、関係の変化自身が新しい緊張を作り出している。しかも、顧みれば、そのように作り出された矛盾や緊張が、社会の自己運動の原動力となっているのである。……社会は、「人間とロボットから成る」と定義されねばならない事態が急速に実現するかも知れない。

これをどのように理解すればいいだろうか。個人的には近代資本主義社会の発展による人間性の喪失と、普遍的固有な「自己」との根源的な矛盾と対立とを直観する。そして、それらが自明な社会に生きる/生きざるを得ない、我々というものと、社会との関係についての再考を促すものであると思う。
そして、「人間とロボットから成る社会」というものは予言的であると同時に、その予言というものはすでに達成をされ、現代に生きる私たちはすでにその先の社会の中にあるということ、だがその視点からこの文章を見返しても決して時代遅れな説教に堕していない点に注目すべきである。
ロボットはそのままAIと読み替えても構わない。むしろ、機械の方が人間を凌駕(シンギュラリティ)する時代にあって、私たちはこのこととどう向き合えばよいか?そして、そうした社会の行き着く先というものについても考えるべきである。
ここで、中井は人間そのものへと眼差しを向けている。

生ま身の人間は、厚い層をいく重にもかさねもった複合体である。……全体としてみれば、ベルクソンのいうように、意識は無意識のゆたかさによって支えられているのである。……ごくふつうの意味の正常さによってゆたかに支えられるのでなければ、足もとから崩れ去ってしまうだろう。……日常的な正常さを正しく評価して、それを静かに整えることが重要だと私は思う。

統合的存在としての人間と、人間がそうであるためのごく当たり前の些細な日常への眼差しというものを中井は端的に書く。そして、あまり断定調で文章を書かない彼にしては珍しく、自分の意見を述べている点にも注目したい。中井の書く実践とは、拍子抜けするほど当たり前で些細な、ささやかなものである。だがそうであるが故にこの実際はとても難しい。そして、経済成長の日本にあってこれを書いていたことも示唆的ではないか。これは警鐘であると同時に慧眼でもあると思う。現代ほど、こうしたささやかな日常的実践は困難である。

さて、次のテキスト「サラリーマン労働」も非常に面白い。このテキストは直接的にはサラリーマンに増えているとされるうつ病についてのものだ。
まず、サラリーマンというのは特定の気質の人間を指すのではなく、むしろサラリーマンとはその「最大公約数的なゆるい自己決定」的な生き方であるがゆえに、様々な気質の人がなれるものである。その気質とは本文中では大きく3つに言及されている。
スキゾ気質/強迫性気質/メランコリー型がそれである。スキゾ気質と強迫性というものは互いに似たような要素を持つ。両者とも「秩序愛好型」であり、他者への攻撃衝動を持ち合わせているが、その中身は大きく異なる。スキゾ的な秩序愛好とは対称性や幾何学性など、どちらかといえば学術的な趣きが強い。例えるならば数学理論における数式など、ある種の様式美をはらんだものであり、サラリーマン社会においてこのタイプは世界を「手続化」し、淡々とこなしていく。本人は組織内のヒエラルキーには興味を示さないが、皮肉なことに組織内では出世をしていく事例も多いとか。対して強迫性気質における秩序愛好とは、整理整頓や清潔に代表されるようなものであり、スキゾとは異なった手続化が存在をする。ドアノブを触るまでの夥しい手順や繰り返される手の洗浄や入浴などがその典型である。より、プラグマティックな趣きが強いのが強迫性気質による秩序といえばいいだろうか。
また強迫性気質の根底には、不安と攻撃衝動が混在をしており、この2つは共に抑圧をされているが、それらの表出は他者への攻撃衝動という形でなされる。スキゾ気質においても攻撃衝動は存在するが、彼らがそれをあらわにするのは自らの秩序世界が侵害されたと感じる時のみである点に特徴がある。対して強迫性気質は常に外部からの攻撃妄想の危機にあり、ゆえに彼らは常に自らを被害者であると主張をする。ここで考えたいのは、強迫性とは管理と表裏一体の関係であり、社会の中にあるほとんどの公的空間は強迫的(管理的)空間であるということである。未来との関係性で捉えるならば、スキゾ気質とは「分からないものはわからない(ゆえにそれでいい)」とするものであるのに対し、強迫性気質とは「分からないものであるが、それでも知らなければならない」というようなものではないか。また、昨今のコロナ禍の社会情勢というものを当てはめてみると、自粛警察や執拗な県外ナンバー狩りなどは強迫性の持つ攻撃衝動の分かりやすい例ではないだろうか。秩序侵害への鋭敏さと被害意識、それへの過剰な反応と防衛行動(攻撃行動)は、現代人のいかに多くが強迫性気質との親和性が高いかを示していると思う。
ただ、スキゾ/強迫とは明確に2つに分けられるものではなく、この両者は振り子の関係であり、その場所やライフステージによってどちらの傾向がより出るかは変わるものである。
以前読んだスーザン・ケインが述べていたものに、外向的な人/内向的な人というものがあるが、100%外向的な人、内向的な人というものはなく、人はこの間を常に揺れ動く存在である。問題は、世界の約半数の人は内向的な傾向にあるにも関わらず、社会のほとんどの空間(学校やオフィス、軍隊や病院など)は外向的な人向けにデザインをされていることだ。中井の述べているスキゾ気質/強迫性気質における社会病理性の問題と、スーザン・ケインの述べている問題とは案外近いところにあるように思える。
多様な在り方を認める社会の土壌というものが必要であると改めて感じる。
このことを、中井の領域である精神医学や精神疾患というものに即していうならば、精神疾患を持った人のことも、前提として患者や疾患を持った人という風に受け止めるのではなく、「突飛な発言や行動」もあるがままに受け止める、あるいは「そういう人もいる」というように認め合える土壌というものが、最適な治療の一つとなりうると思う。そして、そうした多様なものを許容する社会というものは健常であるとされる人々にとっても生きやすく住み良い社会となるのではないのだろうか。
そして、この文脈の中で、本文のテーマである「サラリーマンのうつ病」というものに触れると、うつ病とは執着性気質あるいはメランコリー型とも形容される。彼らは生真面目かつ完璧主義であり、与えられた職務を忠実にこなす。だが流動性に非常に弱く、昇進や転勤というものが彼らの持つ秩序世界を容易に破壊していく。だが、現代のサラリーマンという働き方、働かせ方とは流動性の連続である。このことはメランコリー型の人にとって生存危機的な状態に常に置かれていることを意味する。このことが、現代におけるサラリーマン労働とうつ病との強い相関を意味することは容易に想像ができる。面白いことに、中井はここでマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下プロ倫)」を引きながら、メランコリー型というものはドイツと日本においてのみ見られる特徴的なものであると指摘する。そして、ウェーバー自身が重篤なうつ病に罹患をしており、ドイツ語の文体からして彼がメランコリー型であったことを端的に指摘をする。
ウェーバーのいう「天職」の概念は多分にプロテスタンティズムをはらんだものであり、日本で解されている類のものとは異なるものであるが、天職の概念とサラリーマン労働との関連も興味深いところでもある。日本において労働と宗教意識というものは強い相関は見られないが、ドイツのプロテスタンティズムにおいてこれは聖書解釈ひいては神の意志の問題を含む根源的な問題であった。それらとドイツ的気質と近代資本主義の成立は非常に興味深い。既存のカトリック(普遍)へのプロテクト(抗議)という構図の中で、勤労への目覚めと蓄財、職業意識の確立は経済以上の意味を持つ。ドイツ的気質あるいは今日に近いメランコリー型というものはその過程で成立したものであろう。
それは既存のカトリック的なキリスト教精神の転換を図るものであり、ウェーバー自身資本主義精神の成立について、「純粋に宗教的な熱狂がすでに頂上をとおりすぎ、神の国を求める激情がしだいに冷静な職業道徳にまで解体しはじめ、宗教的根基が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき」であると論じている。そして、この既存の価値基盤の衰退と崩壊とは、中井によれば「伝統志向的・父親志向的」な傾向を持つ執着性気質(メランコリー型)への強い作用を与えるものである。そして、メランコリー型というのは、こうした変化に非常に弱い。中井は「如何なる運命を辿るか注目したい」と結んでいるのみだが、すでにその先の社会に生きている私からしても、このことはまだ容易には判断のつきかねる命題であると思う。
社会の流動性はグローバリズムをその極地として、今日、ますます速度を上げている。その中にあって、一つの学問的概念を構築しその体系を吟味し、現実世界へと当てはめてゆくことそれ自体が困難を極めている。常に私たちは何ものかに追い立てられで生きており、そのことにあまりにも馴染みすぎてしまった。
本来、スキゾ的な気質、強迫的な気質、メランコリーな気質というものはそれぞれ備わっているものの、社会構造はあまりにも強迫的(管理的)であり、その中で大半の人が選ぶ今日的なサラリーマン労働はメランコリー型を理想型とする。
中井のいうように、人は統合的な存在であるが、それは他方では、様々な要素によって成立する微妙な飴細工のような脆さをも持っていると理解するべきである。このことは、現代において忘れ去られてしまったものの、好例ではないかという気がしてならない。

参考・引用:「中井久夫集Ⅰ 働く患者」みすず書房より、「現代における生きがい」「サラリーマン労働」


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