芥川賞雑感「ブラックボックス」を読んで
現代人とは一体どんな人物を指すのだろうか?一歩踏み込んで、現代的若者とは一方どんな人物像を指すのだろうか?
典型的な若者像としては、何かにつけて冷めていて、無気力で飽きっぽく、打たれ弱い。大人関係の範囲は限定的で内向き、冒険的な挑戦はしない。本作の主人公のサクマは「飽きっぽく、冷めている」部分がクローズアップされているように個人的には思う。そして、対人関係も自ら閉じた閉鎖的なもので、不器用だ。だが私が感じたのはそれ以上に、彼は今の社会で生きていく、あるいは存在をしていくことをはなから諦めているような、根本的な不適応をきたしている人物なように思う。そして、それが特殊な例でもなく、「ごく当たり前の」若者像として淡々と熱量なく描かれている所に、本作の特徴があるのだろう。
昨今のコロナウィルス事情やウーバーイーツなどの事象を取り込みながら、焦点はサクマの生き様というものに次第に当てられてゆく。サクマの人物像を端的に表現した箇所がある。
「思い返してみればずっとこんなことを繰り返している気がする。入っては辞め、辞めては入り、不安に苛まれては途端に楽観的になる。軌道に乗り出して視野が広がって、なんとなく自分の先行例になりそうなおじさんやおばさんを見つけては嫌になってまた辞める。生活の諸経費に思い悩んで、なんとか乗り越えると無意味に携帯を買い替えたり新しいホイールを海外サイトで買ったりする。繰り返される日常の先にある先輩諸氏を見るにつけ漸減していく自分のやる気ではあったが、大きなところから見てみれば、自分こそが巨大な環をなしていることに気が付く」
これはサクマ自身による内言なのだが、この不安と楽観を行き来する存在の不安定な在り方は珍しいものではない。誰しもが心当たりのあるもので、無表情や無気力の裏側にあるこうした蠢きが本作の中核的な力となっている。繰り返される転職と、どこにも馴染めない彼の性質は不器用さそのものだ。その彼には円佳という彼女がいるが、彼女もまた定職にはついていない。似たもの同士がくっついて、彼ら自身もまた互いに対して、あるいは関係性について本気にはなっていない。やがて円佳は妊娠をし、それが一つの契機となって円佳は保育士資格の取得を目指して働き始める。サクマも当然、ウーバーイーツのドライバーとして働き始めるわけだが思わぬ出来事によって突然その羽車は狂う。本作の見せ場は恐らくここからなのだろう。税務署の職員に暴行をし、警察官をも暴行しか逮捕され、刑務所へ留置される。彼の怒りはどす黒く、タールのようだ。だがどこかで冷めている。それは税務署職員の鼻を折り、警察官の顎を砕き、股間を潰すという極端な暴力性を秘めた、黒い怒りだ。
サクマの怒りは冒頭、配達員として出入りする大企業のサラリーマンや警備員といったものにも向けられ、描写される。その頂点が税務署職員や警察官に向けられたものであることが分かるが、ここにイデオロギーやロジカルといったものはあるようで、ない。あるのはサクマ個人の中に滞留する言いようのない、黒い怒りである。それは自己破壊を内包した、自傷的な怒りでもある。だがサクマ自身がそれに気がつくのは随分と後になってからなのだろうと思う。サクマ自身の堪え性のなさ、飽きっぽさ、対人関係の閉鎖性や不器用さは自己防衛的なものであり、この社会で明確に存在をすることの拒絶もそれとイコールである。
こうした生き方は物珍しいものではない。拒絶される前に自ら降りること。サクマの生き方はそれを地でいくものである。そして、本作は全体的にサクマ自身の内包している無気力感というものに支配されている。起承転結の起伏のあたりにもそれらはベッタリと張り付いている。サクマの目線は物珍しい、ありふれたものだ。読者は等身大の目線からそれを読むことができる。暴行や刑務所という非日常の描写はあるが、日常生活と地続きの行為の先にそうした「転落」がある。
サクマは現代的若者として描くことに、一応は成功しているのかもしれない。だが個人的には作者がこれらの物語を通して、あるいはサクマを通して何を描きたいのか、伝えたいのかは今ひとつであったと思う。サクマ的な人物はありふれていて、特に共感も反間も覚えることはできない。無味乾燥などこにでも存在をしているキャラクターは、別に「サクマ」という固有の存在でなくてもよい、との感覚を覚えさせる。
率直な感想を言うならば、「それほど面白い作品ではなかった」。
焦点を本作からやや外し、現代社会あるいはそこに存在をする人間というものについて当てると、今の社会には一定数の「はなから存在することを諦めている」人たちがいる。これは何を意味するのだろうか?
彼らの特徴は、そこに特別なイデオロギーがあってそうしているわけではないということだ。社会というものにはなから何も期待せず、かといって強烈な反感があるわけでもない。社会の中にある自らにとって都合の良い構造(本作でいうならばウーバーイーツのような雇用形態など)は柔軟に狡猾に取り入れる。だが積極的にその構造に入っていくことはしない。この不安定な生き方、存在のあり方とは一体何を意味するのであろうか?一面では社会の豊かさ、便利さというものの一つの証左なのだが、そこに絡め取られて生きる存在というものは、何故これほどにも弱く不安定に移ってしまうのであろうか。彼らは自由でありながら貧しく、豊かともいえない領域を右往左往する。そして、結果として、彼らは社会のグレーゾーン、溝の中に落ち込むのだ。だが自らそこから手を伸ばし這い上がろうとするものはそう多くはない。サクマもそうした行為をしようとしながら、惰性的日常を続けていく。これに作者の批判的視点や価値観というものの投影はほとんど皆無といってよい。その限りなくゼロに近い、だが共感ともつかない目線は、そうした価値観を内面化したからこそのなさる技である。ある社会を支配する価値観の徹底した内面化は、その社会集団への帰属と適応に不可欠なものである。
当然私自身もまたこの社会の価値観を内面化しているわけだが、微妙な違和を持っていることも確かだ。そこに、この現代的若者の存在の在り方が興味深く映る。
社会に背中を向けている存在の在り方、あるいはそうした社会そのものにはどんな意味があるのだろう。社会は自らの構造に合うような存在を作り出す一方で、そこから落伍する人間をも生み出していく。そして、そこから落伍した人間たちのプロテクトは自殺、孤独死、ニート、引きこもり、フリーターといった在り方に収斂されてらのではないかと思う。そして、ここにもう一つのプロテクトが加わる。「はなから社会の中に存在をしない、帰属をしない」とする生き方である。あえて傍流というものを自らの主流に置くのだ。そして、一歩進めば主流も傍流もなく、自らの感情や感覚という不安定なもののみを単位として全てを委ねていく生き方も成立する。ここには本質的な意味での過去や現在、未来というものはない。あるのは過去への怒りや現在への楽観、未来への根拠なき不安といった感情単位での原初的な感覚だけである。
サクマはここに位置する。
本作においてはもっと即物的な観点からの描写と展開が続き、結果として一つの物語りが紡がれているという印象であり、そのあたりの「深さ」というものは感じなかった。良くも悪くも即物的で浅いのである。自らの手に取れる、目に見える範囲でしか存在しない、世界や社会、他人、空間、時間というものの中で生きる現代的若者の一つのナラティブなのである。ゆえに、彼女という存在も、避妊をしないことも、結果としての妊娠も、必要に迫られる労働というものも、必然性を持って現れることは決してない。どこまでもそれは浅く、深掘りされることなく、淡々と描写をされていく。そして、その物語の骨格というものも、どこか浅い。
だが、そういった意味での「浅さ」こそが一つの現代的特徴ではないかと思う。
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