見出し画像

父の人生 「厳しい崖道に光が差す」

明日は父の日ということで、我が父のことを改めて書いてみたくなった。
母によれば、若い頃は頑固一徹で柔軟性がなく、怖い夫であったらしい。
ともに大正生まれの両親は、お見合い結婚。といっても、実際にはすでに婚姻することがほぼ前提で、母が客人である父にお茶を出すという形でお互いを見た程度であったそうだ。
昔は、家と家との釣り合いを重視していた筈だから、こうした形での結婚は珍しくなかったのだと思う。

幼少期から始まった苦難の数々

父は、長く続く古い家の次男として生まれ、2歳で実母を亡くしている。間もなく継母が家に入り、腹違いの妹や弟も誕生。継母は弟たちを可愛がり、父は「着物も満足に誂えてもらえない」「学校へ行くにもお弁当も用意してもらえない」といった扱いを受けて育ったと聞いている。

ただ、継母の行いに反して、妹や弟たちは父になついてくれたそうだ。実際、それぞれが家庭を持ってからも交流があり、皆父を兄として慕ってくれていたために父は幸せだったと思う。父は愛情が深い人で、妹たちの面倒をよく見ていたそうだ。

父が十代の頃に実父が他界。その辺りかと思うが、家の借金問題が持ち上がったようで、一時は屋敷まで取られそうになったらしい。親族の話では、私から見た祖父、曽祖父の二代にわたって散財していたようだ。
実父亡き後、父は家を出て自立し、各地を転々として働く。家の借金を返すためである。足立区の牧場にもいたことがあるようで、当時やりとりした書簡の内容から察するに、当時の牧場主には親のように可愛がってもらったようだ。

二十歳前後の頃かと推測されるが、そんな父にさらなる苦難が降りかかる。支那事変への出兵・・・。父が所有していた当時の資料によれば、現在の中国共産党から現地住民(支那人)を守るのが任務の目的であったらしい。

以下、当時配布された「従軍兵士の心得」より抜粋(父の遺品より)。
歴史を改竄され歪曲され、日本を貶める輩も出てくるため、こういう資料を残してきちんと出していくことは重要だと思う。

戦地に於ける敵意なき支那民衆を愛憐せよ
戦地に於ける第三国人に對(たい)しては正々堂々たると共に
其の名誉財産等を尊重せよ
家庭は後顧の憂のない様に整理せよ
(戦場で十分力を発揮できるよう、家庭の心配ごとは片付けておくこと)


父の遺品である、当時の資料


父が賜った勲章

戦地から帰還した父は、その後事業を興すなどしながら実家の借金を完済。家の跡取りは父の兄であるが、以降、所有権は父になっていた(現在は私の兄が相続)。先祖からの土地を売却しないよう、抵当権をつけて自分の兄に貸し付けるという方法を取ったようだ。

結婚後は不器用な夫であり温かい父

父は、愛情表現が下手な人。心の奥底には熱いものを抱えているのに、うまく表現ができないのだ。ただ、欲しいと思うものは可能な限り買い与えてくれる親だった。「あれをしろ」というような押し付けもない。子供の人格を尊重し、やりたいことは親として支援してくれた。

頭に血がのぼって大きな声を出すことはあったが、うちの兄弟姉妹は誰一人叩かれたこともない。大きな声を出してしまうときは心配しているときだ。
つい感情的になったときは、あとで部屋まで来てきちんと事情を説明し、
「昨日はすまなかった。心配でつい怒鳴ってしまった」
と謝ってくることもあった。

7歳下の母に対しては、晩年は可愛くて仕方なかったらしい。常に隣に座ってニコニコ話しかけていた父。
「いね、お茶煎れてくれ^^」
「これ、うまいな。いねも食べろ^^」
「いねは何処に行ったんだ?いねえなあ(だじゃれ??w)」
「いねは何がいいんだ?」

それは外でも同じで、あまりにかまい過ぎて母に冷たくされ、しょんぼりする面もある可愛らしい夫になっていた。母にねだられたものは買い与えていたし、いつも気にかけてくれて母も幸せだったと思う。

死後に知らされた父の行動

父は、一度だけ、うっかり新興宗教に入会してしまったことがある。実家の借金を片付け、自分は山の土地を買って開拓。その後の酪農が今ひとつうまくいかなかった時期かと思うが、知人に誘われて入会したようだ。
ただ、曲がったことが嫌いで正義感に溢れる父は、次第におかしいことに気づいていく。
「こいつらはおかしい」
「仏教のようで違う」

詳細な退会の流れなどは知らないが、勘違いとはいえ、そのようなものを信じた自分を恥じたのだろう。きっぱり縁を切り、晩年は先祖からの菩提寺に通っていたのだそうだ。
そして、住職に自分のこれまでの人生を語り、ときには説法を受けるという毎日を送っていたようだ。

菩提寺に通っていたことを家族が聞かされたのは、父の死後のことである。
父の戒名をお願いしたところ、住職から聞かされたのだ。父の名を添え、住職がつけてくれた戒名の意味がタイトルの言葉である。本人から生き様を聞いてきただけあって、父の生涯を見事に表した戒名だと思う。

父の死後は、他の人にお金を用立てていたことも明らかになった。貸したのではない。相手が困っていたときにあげていたのだ。辛いときに話を聞いてもらったという人もいた。どれも母ですら知らないことで当時は驚いたが、父らしい話ではある。

私は姉たちより結婚がずっと遅かったため、20代から一人暮らしを始めた。自立することを告げると、実家を出るまで父は毎日のように私の部屋に来ては
「嫁に出すなら諦めもつくが、寂しいもんだなあ」
としょんぼりしていたものだ(といいつつ、家具を買う資金をもらった私だがw)。

そんな父は、家を出る前このような言葉をくれたものだ。
「いいか、五体満足に生まれてきて必要な学問も学んで知恵もある・・。だから、どこに行っても怖いことはないんだぞ」
これは、身体に障害を抱えた人が劣っているという意図ではないので誤解しないで欲しい。不安になることなく生きていけという父なりの餞(はなむけ)の言葉なのだ。どんなものより、宝となっている。


今の私と夫くらいの年齢の「みつお」さんと「いね」さん(うちは夫の方が下)。
これは多分、2番目の姉の結婚式のとき。


約2000文字超えと長めになりましたが、読んでいただいてありがとうございます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?