先生

きっと助かりたかっただけなのだろう、と彼は言う。そうかそれも一理あるなと顎に手を当て頷いてやった。そしたら彼があんまりにも安心したように笑うので、 あんまりにも可笑しくって。顎にあった手を唇に引っ付けて、思わず言葉や息が漏れ出てしまわないように気を付ける。引っ付いたところから段々水分を含んでふやけていくので、たまにふうと息を吹きかけた。
きっと世界が憎かったのだろう、と彼女は言う。そうかそれは知らなかったよと目を真ん丸に開いてやった。そしたら彼女はなんとそのビー玉のような大きな瞳から、真珠のような涙をぽろぽろと落としたのだ。それには私も目を見開くことしかできなかった。あんまりぽろぽろと長ったらしく鳴き続けるので、今朝おろしたばかりの糊のきいた新品のハンカチを差し出してやった。
何人かに某氏について尋ねてみたが、何故か返ってくるのは三者三様、十人十色な回答ばかり。結局某氏については何も分からず終いだった。とんだご足労だったな、と踵を返したところで、最後に質問した青年に声をかけられた。
「あなたはどうお思いですか。」
愚直な瞳だ。若さが前面に滲み出た色と力強さを持っている。長めの前髪が風に揺られて、瞳の虹彩が全て私の前に躍り出た。いい目だ。私に質問をした青年なんて今まで一人もいなかった。私は青年の方に体を向け、散々な目にあった自らの手やハンカチや視界いっぱいを見る。私の視界のど真ん中にどっしりと居座る青年はじっとりと、私の答を待っている。
「私かね。」
「ええ、あなたです、先生。」
「その質問に意味がないことは分かっているね?」
「ええ。もちろん。」
「そうだろうそうだろう、君は賢そうだからね。だったらどうして?敢えて訊こう、 どうしてそんなことを訊くんだい?」
青年は黙ってしまった。普段ならこの辺で興味も失せて、私の人生の上に振ってきた糸くず程度の青年など捨て置いて帰路につくのだが、今日は特別だ。この青年にとてつもない興味をそそられる。とても若く大人びていると思ったが、想定外の質問をされると困ってしまうらしい。なんとも可愛らしいことだ。
「...雲はどうして白い?」
「え?」
「空はどうして青い?葉っぱはどうして緑なんだ?人間はどうして喋るんだ?」
「...先生。」
困っている姿がとても可愛いらしい。ついいじめたくなった、と肩を竦める。
「青年よ、未来ある探究者よ。物事に疑問を抱くことは知識の始まりだが、持たなくていい疑問だってあるのだよ。わかるだろう?私は神なんぞが絶対的な世界の意志だ、なんてのは言わないが、どうしても説明に難いものっちゅうのはあるじゃないか。世界は広いからね。」
「性格が悪いですね。」
「それは知らなくていいことだよ、青年。私が某氏を―‘私’をどう思うかなんて、 コインの表と裏を同時にみたいなんていう子供の戯言と同じさ。これに懲りたら二度と言わないことだね。」
今度こそ、と重い足を地面から引っぺがして歩き出す。青年の顔を見てやれなかったが、それは私の負けだ。栄えある敗北、意味ある降伏。私の顔は充実した笑みを浮かべていることだろう。
「先生。」
ぴたりと足を止めた。まさかまだ話しかけてくるとは。
「先生は、先生のことをどう思われますか。」
素晴らしい。ただそう思った。こんな人間に会ったのは初めてだった。私は逸る鼓動を何とか抑えながら、できる限り平静を装って、しかし楽しそうに、言葉を投げつけてやった。
「彼はね、楽しいことが好きなんだよ。」
そら、これが君の欲しかった答だぞ。

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