密なる法網 豊臣・徳川時代1     豊臣時代のキリスト教関連

◇1587年(天正15)◇6月19日、秀吉、「伴天連追放令」を発し、キリスト教布教を禁止 日本に伝来したキリスト教は、<秀吉期>以前の<信長期>を除いて明治になるまで、ほとんどが禁教の時代であった。何十人、何百人が一度に迫害され、殉教する「崩れ」という大弾圧事件が繰り返された。集団虐殺が容赦なく頻発し、キリスト教史上、日本のキリシタン弾圧は、ローマ帝国に次ぐ残虐・凄惨なものだったといわれる。殉教者は、名前がわかっているだけでも4千人を超え、実際は、3、4万人に上るといわれている。「切支丹・ジェノサイド」と言える。「日本歴史大辞典」(小学館)によるキリシタン禁制史の時代区分は、大きく5期に分けられる。第1期は、自由な布教期。1549年(天文18)、耶蘇会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して布教をはじめてから、1587年(天正15)、豊臣秀吉が伴天連追放令を出すまで。第2期は、黙認下の布教発展期。1587年(天正15)から1614年(慶長18)、大禁教令が出され、在日宣教師の多くと主な日本人信徒らがマカオ、マニラに追放されるまで。第3期は、迫害・殉教期。1614年(慶長18)から1644年(正保1)に最後の宣教師小西マンショが殉教するまで。この30年間に、幕府の鎖国体制が完成し、宣教師と信徒の摘発、処刑が行われ、有馬、京都、長崎、江戸などで大殉教事件が頻発。第4期は、潜伏期。1644年(正保1)から1873年(明治6)にキリシタン禁制の高札が取り除かれるまで。この期間にも「崩れ」と呼ばれるキリシタン集団露顕事件が時折発生し、厳しい処分を受けた。第5期は、復活期。1873年(明治6)、長崎県下および熊本県天草地方を中心として潜伏していた信徒たちが、転宗願いを出し、キリシタンに戻った。

以下、江戸幕府時代の「キリスト教禁制」に関する事項をまとめる。(自由な布教期)<信長期>・1549年(天文18)8月15日、キリスト教伝来イエズス会フランシスコ・ザビエルが、キリスト教布教のため鹿児島に到着した。インドでの布教に失敗したザビエルは、マラッカで薩摩の武士アンジロー達と出会い、日本への布教を決意。ザビエルはその後薩摩での布教を禁止され、京都、堺、山口などで許可を得て、布教活動を始めた。千ないし千5百人の信者をつくったが、日本国内での布教が思わしくなく、滞日わずか2年3ヵ月で再びインドへ向かった。1552年(天文21)以降、ザビエルの指令で、パードレ(宣教師)が次々来日。・1560年(永禄3)3月、キリスト教布教許可幕府がキリスト教の布教許可を与え、布教も本格的となった。キリスト教はザビエル後任の宣教師たちの活躍と、ポルトガルやスペインとの貿易によって利益を上げようとする一部大名の保護を受け、急速に信者を増やしていった。幕臣などにも信徒が広がり、大村純忠、大友義鎮(宗麟)高山右近父子、結城山城守忠正、小西隆佐、小西行長などが入信した。信者は1570年(元亀1)3万人、1579年(天正7)10万人、本能寺の変(1582年6月=天正10)のころには15万人、1587年(同15)20万人と増えた。信長は、自らの統一事業に強力に立ちはだかり、一大封建的敵国をなしていた仏教勢力を徹底的に打破しようとする一方で、キリスト教宣教師らを厚遇し、布教許可の朱印状を授け、安土に土地を与え、京都南蛮寺建立を援助するなどその愛顧、保護ぶりは特筆すべきものであった。もっとも教理への傾倒ではなく、夷をもって夷を制すという政治的に利用すべきものとしての魅力であった。火器をはじめ舶来の珍奇な品々に対する好奇心と宣教師らの友好的態度は、信長の意にかない、満足させた。1582年(天正10)には、九州3侯の大村純忠、大友宗麟、有馬晴信による天正遣欧少年使節団がローマに向かい、ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けると同時に日本ブームが巻き起こり、日本への布教に対してイエズス会は大きな後ろ盾を持つこととなった。

天照大神を祖先神とする天皇をいただく朝廷は1565年(永禄8)、天皇の綸旨「大うすはらい」(伴天連追放)を発布したが、織田信長の入洛(1568年=永禄11)から10年余の間は、キリシタン伝道の全盛期、黄金時代であった。<秀吉期>1586年(天正14)12月、太政大臣となった豊臣秀吉は、信長が破壊した延暦寺の再興、一向宗への布教許可、日蓮宗公認など信長とは異なった政策を採ったものの、キリシタンに対しては、当初信長に勝るとも劣らぬ好意的姿勢を示した。この年の5月、大阪城でイエズス会日本準管区長コェリヨと面談した際、九州征討や朝鮮・シナ征服計画を打ち明け、ポルトガルから艦船2隻の購入斡旋を申し出ている。さらに、日本の半分をキリシタン教徒に分封しようとか、布教の自由、軍兵宿泊、租税免除の要求も直ちに許可し、教会のために長崎の地を確保しようとまで言っている。秀吉も、信仰内容の善悪からではなく、自らの野望達成に役立つ限り、キリシタンを最大限保護・利用しようとしたものに他ならなかった。キリシタンも彼の魂胆を利用して教会の勢力拡大を図ることに専念、ご機嫌取りに努めた。しかし、この利己的均衡状態は脆くも破局へ転じる。1587年(天正15)には、薩摩、島津征討の軍を起こし、6月には、九州平定を果たし、筑前箱崎に凱旋した。18日、陣中を訪れたコェリヨに博多の教会敷地を与える約束をするなど、親しく接遇して別れた。ところが、その夜、有名な次の伴天連追放令を発することになる。「君子豹変す」とはこのことか、余りの急変であった。何が起きたのか。館に戻った秀吉は、寵臣の侍医兼顧問・施薬院徳運全宗と南蛮渡りの美酒を次々干していた。この日、コェリヨがポルトガル船を博多へ回航したが、浅瀬のため入港できないことになり、「船を検せん」と楽しみに待っていた秀吉は、これに機嫌を損ねた。これに加え、全宗が内命を受けて有馬領を巡回して、秀吉を慰めるための側女を捜したが、承諾する者が無いばかりか、領内の婦人はほとんどキリシタンだったこともあって、断られ面罵されたという。全宗からこの報告を受けた秀吉が、自分への不服従にはなはだしく立腹し、酔眼朦朧となり、自制心を失った。かねてからキリシタンに対して教敵として反感と嫌悪を抱いていた僧侶出身の全宗は、「蛮人邪宗を授け、神社仏閣を破却」とか「奉行歩行して通りけるに、伴天連僧乗り物にて通り過ぎ、無礼なる仕形」など日ごろの不平不満をあらいざらい秀吉にぶちまけた。これが秀吉の神経を逆なでし、変心を誘った。これらが、追放令の主因・副因といわれるが、この程度の理由で、これほどの大決断をしたとは思えない。「九州の地を踏み、隆盛なキリシタンの実態を目撃、ことにイエズス会の町と化した長崎が周辺に楼砦と塹壕を築き、一種の要塞化し、砲備ある軍船さえ持つを確かめ、さらに軍備を持つべきとの議論も耳にし、果然禁教を決断した」との見方もある。後日、秀吉は、追放令発令の動機について、南蛮国の日本征服の意図を読み取ったからだと語っている。コェリヨらは、キリシタン領主を糾合し、武器弾薬を提供して武力行使によって、長崎防衛を企てたり、日本国内に要塞を築こうとする動きもあった、という。(「日本キリスト教史」)真相はいずれにしろ、直ちに、秀吉からのコェリヨに次の詰問書が届けられた。「一、何故伴天連共は非常な熱意を以って人民を強制的にキリシタンに引き入るるか。一、何故坊主等と提携せず神と仏の寺社を破却し、迫害するか。一、何故人民に有用且つ利益有る畜類、牛馬を法外にも食するのか。一、何故ポルトガル人は日本人を買い取り、且つ女奴隷に無法な行為を要求するのか」 これに対し、コェリヨが使者に渡した返書は次のようであった。「1、かねて与えられた布教許可に基づき、布教を為すのであって、決して強迫して入信せしめることはない。2、キリシタンと仏教は両極の差があり、和合し得ない。信徒らが熱心の余り神社仏閣を害することがあっても、自ら進んで為すことは絶対無い。3、牛肉を食するのは欧州の習慣だが、殿下が欲しないのであれば自今パードレは食しない。4、ポルトガル人の所業については、教会は当面の責任者ではなく、禁止する権限は無い。殿下の権力の発動によって禁止されれば、解決する」 このときの秀吉には、返書の内容はもはや問題ではなかった。禁令遂行の一途あるのみで、あった。そして、「伴天連追放令」となった。

・1587年(天正15)6月19日、「伴天連追放令」(5ヶ条の「定」)「伴天連追放令」はキリシタンの「布教」を取締るためのものであり、キリシタン信仰そのものを禁じたのではなかった。豊臣秀吉が通告した5ヶ条の「定」は、次のとおり。一、「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授候儀太 以不可然事」(日本は神々の国であり、キリシタンたちの国から宣教師たちが悪魔の教えを説くために当地に来ることは、甚だ悪い所業である)。一、「其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破らせ前代未聞候、国郡在所知行等給人に被下候儀者当座之事候、天下よりのご法度を相守諸事可得其意処、下々として猥義曲事候」(彼らは日本の諸領国に来て、日本人をその宗派に改宗させている。そのためキリシタンは日本人の神々や仏たちの寺院を破壊している。このことは人々が、いまだかってまったく見聞したこのないことである。人々は天下の法と定めを完全に遵守する義務を負っている。しかし、下層の者たちがこれらに反して、同様の騒擾(寺社破壊)を働くことは処罰に値することである)。一、「伴天連其智恵之法を以、心さし次第に檀那を持候と被 思召へば、如右日域之仏法を相破事曲事候条、伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可帰国候、其中に下下伴天連に不謂族申懸もの在之は曲事たるべき事」(もし天下の君が宣教師たちがその宗派に基づいて振舞うことを善しとするならば、日本の教えを破壊していることになる。これは悪しきことであるので、余は宣教師たちが日本の土地に居るべきでないと定める。このため、今日から20日以内に、自国に戻るべきである。もし、この期間に何者かが危害を加えるならば、かの者は罰せられる)一、「黒船之儀は商売之事候間、各別に候之条、年月を経諸事売買いたすべき事」(ナウ船=ポルトガル船はその取引を行うために来航するのであるから、それはまったく別の事柄である。取引は全く支障なく行うことができる)一、「自今以後仏法のさまたげを不成輩は、商人之儀は不及申、いずれにてもきりしたん国より往還くるしからず候条、可成其意事」(今後は商人のみならず、インドから来る人々は、神々と仏たちの教えに妨害を加えない限り、誰でも自由に日本に来ることができる)。」

追放令を通告されたコヨリテは、船が6ヶ月間出航しないため、20日以内には退去できない旨弁明、秀吉は全員平戸に集結して、出帆時までとどまるよう命じた。そして、関連の命令を矢継ぎ早に発した。    宣教師追放は、ヨーロッパ人だけでなく、日本人修道士にも適用、軍船や陣所から十字架のついた旗の除去、数日前にイエズス会に付与した博多教会建設用地と大阪・堺・京都の修道院の没収、キリシタン領主が寄進した教会等の没収を命じた。また、19日夜、秀吉は「キリシタンの教えが日本の兵士、主だった諸侯の間に広まりつつある。これは予の好まぬところである。それが天下の何らかの労苦になりはしないかと案ずる」と、キリシタン大名の高山右近らに棄教を求めた。秀吉は、キリシタン大名の所領における動静について強い警戒心を抱き、一向信徒にもまして「天下に累を及ぼす」存在として危惧を抱き、天下統一事業の妨げになると懸念した。キリシタン教界の大旦那と目されていた右近が棄教すれば、他のキリシタン大名らも離教すると秀吉は楽観していたが、高山が拒絶したため、改易(身分剥奪)処分にした。右近の棄教拒絶で、秀吉の思惑ははずれ、彼のキリシタン教界に対する態度はいっそう硬化し、伴天連追放令の制札を日本の主要な土地で掲示させた。1591年(天正19)3月、秀吉はインド副王使を引見、伴天連追放令撤廃の願いには応じなかったが、貿易継続のため、宣教師10名の長崎滞在を認め、イエズス会宣教師130名が西南九州に留まり慎重な布教活動を継続することを許し、禁令は骨抜きになった。1592年(文禄1)作成の「日本イエズス会目録」によると、追放令以降、5万人の受洗者があり、当時のキリシタンは21万7500人、教会は240ヶ所。秀吉治下、比較的平穏に推移していたキリシタン史が、迫害受難史へと大転換する「サン・フェリーペ」事件が起き、大量処刑の「26聖人殉教」を招いた。1596年(慶長1)10月17日、フイリピンからメキシコに出帆したスペイン船「サン・フェリーペ」号が台風のため、土佐浦戸に漂着した。領主長曽我部氏は、日本の慣習法に従って漂着船の積荷を没収、秀吉に報告した。同地に派遣された五奉行の一人増田長盛が、航海士に航海図を見せて、スペイン人はいかなる方法でフィリピンやメキシコを奪ったのかを尋問したところ、航海士は「われわれは世界中で取引をしようとしており、われわれを好遇すれば味方となり、虐待すれば領土を奪う」「そのためにはまず修道士が来なければならない」と答えた。帰京した増田は秀吉に「スペイン人は、他の王国には征服者であり、彼らはまず他国に修道者を入れ、その後軍隊を入れて征服するのである。それを日本でもやろうとしている」と報告、これに激怒した秀吉は京都・大阪にいた宣教師ら26人を逮捕。12月19日、長崎で磔にした。秀吉は死刑宣告文の中で「使徒と称して来日し、禁教令下にもかかわらず、キリシタンのお教えを説いたため磔刑に処する。又今後もその布教は許さず、これを破る者は血族とともに死罪に処する」と述べた。その後、処刑を免れたフランシスコ会士、イエズス会士10数人もマカオ、マニラなどに追放され、長崎、肥前各地の教会が破毀された。フイリピン総督から、サン・フェリーペ号積載貨物の没収と宣教師処刑に就いて賠償を要求され、秀吉は遺体引渡しには応じたが、船荷没収、会士処刑は国法と禁令違反として譲らなかった。11ヶ条「覚」書=1587年(天正15)6月18日秀吉は、「伴天連追放令」前日の6月18日、国内諸侯向けに11ヶ条の「覚」書を出しているが、その中では「伴天連門徒之儀は、其者之可為心次第事」と述べ、キリシタン信仰はその者の心次第であるとして、信仰は基本的に自由、との考えを示している。その上で、キリシタンになるには階層によって公儀の許可が必要だとし、武士階級が支配下の者に強制的に入信させるのを禁止した。庶民のキリシタンではなく、武士のそれを禁じたもので、給人の政治的・思想的統制法であった。19日の伴天連追放令は、外国人伴天連に発せられたもので、18日の「覚」は国内諸侯向けと思われる。「覚」一条、伴天連門徒之儀は、其者之可為心次第事二条、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を、心さしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候事、曲事候事三条、其国郡知行之義、給人に被下候事は、当座之義に候、給人はかはり候といえ共、百姓は不替もの候条、理不尽之義、何かに付て於有之は、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事四条、二百町二、三千貫メ上之者、伴天連に成候においては、奉得 公儀御意次第、成可申候事五条、右之知行より下を取候者は、八宗九宗之義候条、其主一人宛は、心次第可成事(中略)八条、国郡又は在所を持候大名、其家中之者共を、伴天連門徒押付成候事は、本願寺門徒之寺内をたて候よりも、不可然義候間、天下之さわり可成候条、其分別無之者は、可被加御成敗候事九条、伴天連門徒、心さし次第に下々成候義は、八宗九宗之儀候間、不苦事(後略)
【以下、続く】 

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