見出し画像

スタートアップの先駆け?国友鉄砲鍛冶軍団

こんにちは。ヨシミツダです。
休みの日を利用して「国友鉄砲ミュージアム」というところへ行ってきました。

場所は滋賀県の長浜市というところにあります。
ミュージアムがある長浜市は大河ドラマによくでてくる当時近畿最強の戦国武将だった浅井長政のお城が近くにあったり、豊臣秀吉や山内一豊も居城としていた長浜城があります。

田園の中にある集落

鉄砲が伝来したのは若干確かではないものの1543年種子島に漂着したポルトガル商人から購入した、2挺がはじまりと言われています。その後、島津氏より時の将軍足利義晴の手に渡った1挺が国友に渡り、国産化を依頼されたというあらましがあります。

長浜市の木之本町には、古橋遺跡という製鉄炉の遺跡があり、古くから製鉄技術の高い土地柄で、国友も鍛冶の技術で有名な集落でした。そこに白羽の矢が立ったというわけです。

実際に行ってみると国友鉄砲ミュージアムは田園地帯の静かな集落の中にあり、こののどかな場所で最先端の技術が作られたことがにわかに信じられませんでした。

渡来人のカルチャー

この国友の集落はおそらく大陸からの渡来人を祖にしており、高い文化や技術レベルを持っていたのだと想像できます。当時人気を二分した堺の鉄砲と比較して特にその機能美を評価されていたといいます。
カルチャーの語源はラテン語で「耕す」という意味です。朝鮮半島経由で来た技術者集団が長い時を経て、その土地に馴染んでも、依然として高い技術力を持ち続けているのはある種のカルチャーができあがっているようにも思います。

この長浜市の対岸の高島市というところに安曇(あど)というところがあるのですが、司馬遼太郎さんの「街道をゆく(1)」でも渡来人の方をルーツに持つ集落ということで言及されていました。通常は「アヅミ」と読むそうで、日本中にその集落があるそうです。ところで、最近の研究でDNA調査の結果、渡来人由来のDNA比率が1番高い都道府県は滋賀県らしく、多くの渡来人達が琵琶湖周辺に根づいたことが、推測されます。

戦国のスタートアップ

国友に鉄砲の製作依頼がきて、約半年で国産鉄砲を2挺完成させ、献上しています。
これは現代の基準で考えても、凄まじいスピードだと思います。というのは、鉄砲を製作するためには今でいうネジ切りのような加工技術が必要だったのですが、そもそもネジ自体を使うこと自体がはじめてであったため、その他の生産工程を含めて全て開発対象になったからです。

そのため、国友は日本のネジ発明の地と言われています。ネジの発明を含めて半年って、現代でもそのお題がでたら、できるかどうか。。戦後の日本メーカーのような凄まじさを感じます。

鉄砲伝来時に八板金兵衛という人が、種子島領主種子島時堯(たねがしま ときたか)という人から2挺のポルトガル人から購入した鉄砲のうち、1挺を与えられて国産化を依頼されています。この時金兵衛は自分の娘をポルトガル人に嫁がせてまで、製造方法を習得したそうです。国友とこの人とのからみがあったのか、なかったのか。金兵衛が国産初の鉄砲を完成させたのが1545年といわれており、上記の国友の上程時期を考えると矛盾があるのですが、なんらかの協力関係、もしくは競争の関係があったと考えられます。

国友は、その後1549年には織田信長より500挺もの鉄砲の大量受注をしています。

いずれにしても、堺や金兵衛のようなよきライバルもいて、まさに戦国スタートアップというに相応しいアクションのスピードだったと感じます。

諸行無常

その後、長篠の合戦や大坂冬の陣、夏の陣で国友の鉄砲は大活躍しますが、太平の世になるとその需要は激減し、鉄砲作りも下火になっていきます。
国友 一貫斎という、自作で望遠鏡を作ってしまうような和製レオナルド・ダビィンチみたいな人も途中現れますが、鉄砲作りとしての一定の役目は果たしたといえます。

この時代による要請により、急激に爆誕して、やがてニーズが冷めると斜陽産業になっていく感じは今のスタートアップとも同じですよね。

国友がチャンスをものにできたのも、今は滋賀県は田舎にカテゴライズされますが、戦国時代には京都が日本の中心だったので、地政学的な効果もあったと思います。

しかし、のどかなカントリーサイドから時代を動かすスタートアップ的な動きってなんかしびれるなということで印象深かったので書いてみました。

それではまた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?