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サラリーマンを辞めて市議会議員になりました。(人生の転機その3)

「政治に信頼を取り戻す!」

という想いを抱き、初めて市議会議員選挙に出馬(落選)してから15年、市議会議員に当選させていただいてから11年の月日が経ちました。まさか自分が議員になって政治の道を歩むことになろうとは、就職したての20歳の私はこれっぽっちも思ってませんでした。

神戸高専を卒業し技術社員として三菱電機ビルテクノサービスに入社した私は、仮配属(3ヶ月目)、本配属(1年目)共に希望していた大阪に決まり、一流のエンジニアリングなるぞと決意に満ちた日々を送っていました。

直属の上司からの一言

「福丸、営業に変わるように!」

直属の上司である窪田課長からの言葉でした。
研修明け2年目、21歳の私には、とても衝撃的な言葉でした。

「なんでやねん?なんで俺やねん?」
高専を卒業して技術系で頑張ろうと仕事に少し馴れてきた頃でしたから、とても不満を抱いて拗ねてしまいました。
この頃の私はいやでいやで、十二指腸潰瘍と前立腺炎を患うなど身体に変調を来すほどにストレスを抱えました。
むちゃくちゃ不満たらたらで、負のスパイラルの毎日でした(^◇^;)

営業職にも幾分馴れた25歳くらいの時、この職場で一生を終えることに違和感を感じていました。
このまま、会社人間として一生を終えることは自分がこの世に生まれてきた役割ではないと、いつしか感じるようになっていました。それは、会社の体質や風土などの影響もありましたが、資本主義社会におけるサラリーマンというものに対する嫌悪感もあったように思います。
金太郎飴的な、誰でも替わりは居るので自分でなくてもいいような…。
また、24歳に結婚しましたので、そのことも影響しているかもしれません。

もっと世のため人のために役に立つ人生を送りたいという欲求がだんだん自分の中で成長していきました。

師匠、林英臣先生との出会い

そして29歳の時です。
現在、師として慕う林英臣先生が三菱電機や三菱系の代理店の営業向けの研修の講師としてやってきました。
講師に招いたのは、上司の窪田さんでした。
私が入社当時大阪で課長職だった窪田さんは、転勤で静岡支店に行き、そこで林英臣先生と知り合ったのでした。そして、この時は部長として再度私の上司として戻って来ていました。
松下政経塾一期生の林英臣先生からの講義は、松下幸之助に学ぶ経営学といった感じのものだったと記憶しています。
その講演を聞いて、これだっ!と響くものが身体を駆け抜けました。

この時は、”これだっ!”というものが具体的に言語化はできなかったのですが、今から振り返って思うと、林英臣先生が発する人生をかけて世の中をより良くしていきたいという等身大の本氣の想いを感じとっていたのだと思います。

追っかけのはじまり

それからは、林英臣先生が関西で講演をされる時は必ず参加する追っかけの様な日々がスタートしました。
この時から月1回行われる神戸の勉強会(今啓林綜學会)に参加しており、現在も20年間参加しています。さらに、休みの日には、萩や岡山まで行ったりもしました。
神戸の勉強会では、以下の様なことを勉強しました。

・日本仏教開祖の人間学(仏陀、聖徳太子、空海、最澄、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、蓮如)
・よみがえる日本人の魂(近現代史の研究、この国はどこへいくのか)
・日本史に学び志を立てる(日本史概説)
・大和言葉の世界観(言霊、国学、哲理、存在、天地、終始、時空、中心、組織、造化、総合)
・大和言葉の人生観(開講、楽天観、生成観、現実観、一体観、全体観、生命観、男女観、血統観、肯定観、政治観、終講)
・日中人物伝(天照大御神、孔子、聖徳太子、孟子、空海、韓非子、法然、「列女伝」、吉田兼好、諸葛孔明、安岡正篤、王陽明)

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まだまだ、あるのですが、こうして列挙すると東洋思想について結構勉強してたんやとビックリ!

30歳の誕生日に感じたこと、亡き母への想い

林英臣先生の追っかけを続けながら、先生の語る言葉や語る想いに共感し鼓舞され充実したサラリーマンとしての人生を送っていました。
浜松在住の林英臣先生が浜松で実施する活動などにも参加したりして、先生の活動のお手伝いにのめり込んでいきました。サラリーマンを続けながら側面で活動のサポートをしていこうと思っていました。
29歳のこの年には、長男が生まれ生活は充実していました。

平成13年、私の30歳の誕生日が来ました。
お母さんが死んだのは、母自身が30歳の時でした。自分の中ではいつも変わらぬお母さんでしたので、自分が小学生で母親は30歳のままいつまでも変わっていません。よもや自分が同じ年になろうとは、これっぽっちも想像していませんでした。
この時にはじめて、母親の念子とでも表現しようものが自分の中に入って来た様に感じました。
30歳の若さで小さい子供を残して旅立つことの想いを考えると、無念で無念でしかた無かったんやろうなあと、とても悔しい想いがして、悲しくて切なくてやりきれない想いが私の身体の奥から湧き上がってきました。
自然と涙が溢れてきました。

この時から、お母さんの想いを背負って一緒に生きて行こう!

自分の人生を終える時に、お母さんに「よく頑張ったね!」と誉めてもらえる様な人生を送ろう!
と自分の心に刻みました。

この想いが、サラリーマンを辞めて政治の道に進もうと決心した原点です。

この時の衝撃は、自分の人生のすべてなのだと思います。

初当選!

30歳の時から7年経過した37歳の平成21年1月(37歳と11ヶ月)、1,992票(32議席中、32番目)にて当選!
(遡ること4年前の平成17年1月の選挙では、落選しています。)

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親戚も同級生も一人もいない茨木市において、政党に所属することなく無所属にて出馬し、茨木市議会議員に初当選させていただきました。
世のため人のために、周りの人に喜んでもらえるように役立つ人になりたい。滅私奉公の精神が一番大切な議員として活動することで、きっとお母さんは誉めてくれるに違いない。

家族をはじめ、地域の方々や様々な活動を共にしている市民の皆様、また市外からも応援して下さる多くの方々に支えられて初当選させていただき、議員としての立場を与えていただきました。

本当に有難いことです。

こうしてこれまでを振り返ると、父親の事故の話から母親の死、おばあちゃんの死、高校受験、就職と、すべてあらかじめ用意されていたかの様に人と出会い、また様々な経験をして現在(いま)があるのだと思います。

これからも、お母さんが喜んでくれるかどうかという価値判断で、直感を大切にした人生を送っていきたいと思います。

死ぬ時にお母さんが誉めてくれますように(^人^)

長文を最後までお読みいただきありがとうございます。

事務所開き2



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