おばあちゃんの死

母の死から24年後、私が32歳の時におばあちゃんはこの世を後にしました。(そっかあ、おばあちゃんとは24年間の生活を送ることができたんやあ…、しみじみ。)第二の母親として大切に育ててくれました。私には、産みの母と育ての母(おばあちゃん)と二人の母親がいます。(贅沢で有難いことです。)

入院していたおばあちゃんがいよいよ危ないと仕事中に知らせが入りました。病院に着いたのは、日が沈みかけていた頃だったと思います。病室に横たわるおばあちゃんをしばらく眺めていた時、「プチッ」という綺麗な音がおばあちゃんの身体から発せられました。と同時に心電図は波形を描くことをやめました。

麦秋や祖母の命の切るる音 光本弥観

その翌年の平成16年にサラリーマンを辞め、平成17年1月の茨木市議会議員選挙に出馬し、政治の道を歩み始めましたので、おばあちゃんは、天国で驚いているかも知れません。(この時の選挙は落選をし、次の4年後の平成21年の選挙で初当選をすることが出来ましが、細かい話は、またいずれこちらに書かせていただきます。)

母が亡くなって、翌年の小学4年生から、明石にあるおばあちゃんの家に引越しました。引越し直ぐのことでした。もしかしたら引越したその日かもしれません。「晩御飯、何食べたい?」とおばあちゃん。
「親子丼!」と母がいつも作ってくれていた親子丼の味を口いっぱいにふくらませながらこたえました。出来上がってきた親子丼は、母がいつも作ってくれていたものとは見た目も味も似つかないものでした。
「こんなん親子丼ちゃう!」と拗ねた私を申し訳なさそうに見ているおばあちゃん。その時の顔は、今でも忘れられません。人生で人を一番困らせてしまったと反省しています。周りの人にこんな寂しい思いを抱かせてはならないと誓った出来事です。

おばあちゃんは、毎晩寝る前に、御仏壇に般若心経をあげていました。御仏壇と曾祖父曾祖母の写真とネジ巻き式のボンボン時計のある部屋でした。中学生になって一人で寝るようになるまでは、般若心経を唱え終えたおばあちゃんが布団に入って来るのを待って、足を絡ませて寝ていました。そうしないと寝ることが出来ませんでした。
般若心経を毎晩聞いていた事は、私の人格形成に影響を与えているのだと思います。

おばあちゃんがめちゃくちゃ喜んでくれたことがありました。それは、私が神戸高専に合格したことでした。
中学1年生の時は、160人中、120番くらいの成績だったのですが中学2年生の最初のテストで10番以内に入ってからは、中学を卒業する迄、学力をキープしていました。自分でも理由が分からないのですが、急に勉強が楽しくなって授業をしっかり聞くようになっていました。
そして、同じ柔道部だった仲の良い友人が神戸高専を受けるという理由で受験をし合格しました。
その時の祖母は、こちらが恥ずかしいくらいに外で言い回っていて、どんだけ嬉しいねんという感じでした。
自分の行動で人に喜んでもらったはじめての経験でした。
おばあちゃんに出来た恩返しの一つです。

小学3年生から32歳まで、中学高専の多感な時期には反抗をしてかなりきつく当たったこともあったけど、おばあちゃんと過ごした24年間は、かけがえのない時間です。おばあちゃんの足に絡みついていた時の温もりや肌触りは私の中で生き続けています。

おかあさんとおばあちゃんがいつでも見守ってくれているという感覚が、目に見えないものとのつながり、宇宙とのつながりを感じることが出来る私の身体を作っているのだろうと、この文章を書きながら感じました。

最後までお読みいただき有難うございます!

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