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デジタルは毒親になってしまうのか?

私が教える大学のコースでは、卒業制作として自らテーマを設定して、何らかのプロジェクトを実施することが求められている。その合評で、何人もの学生から同じような話を聞いた。
表現の仕方はそれぞれだが、要約するとこういうことだ。

デジタル社会の中で勝手に規定されつつある自分を、取り戻したい。

ネットニュースは、その人の過去の閲覧履歴に応じて興味を持ちそうなニュースを優先して表示する。
そしてたまたま検索しただけでも、自分をパーソナラズする関連情報の1つにカウントされてしまう。
音楽のサブスクもAmazonも履歴に応じて、音楽や本をリコメンしてくる。今はそんな社会だ。

趣味嗜好に沿った情報に偏って触れることで、知らないうちに自らの価値観が規定されていってしまうのではないかという不安。
さらには一歩間違うと自分が自分ではないものにされていってしまうかもしれない恐怖。
自ら探す喜びが奪われてしまうことで、自分が今の自分以上のものになる可能性をつぶされてしまうことへの抵抗感。

デジタル社会がパーソナライズを極めていく中で、先回りして何もかも提示されてしまう。すでに大人の世代は、それ以前に自分の価値観がある程度形成されている分、割り切ってそんな環境も受け止められるが、感受性が最も高い10代~20代をそんな環境で暮らしていると、そこから逃げていきたくなるのが健全だろうなと思う。

そんな学生たちの叫びを聞いていると、ふと、デジタル社会の情報提供の仕方は「毒親」に似ているなあと思った。
子ども自立の機会を奪い、思い通りにコントロールしようとする存在。
逃げたても逃げられない、いやむしろ、逃げたいのに依存してしまう存在。それが「毒親」。

デジタル社会の便利さの恩恵は大きい。
ある程度パーソナライズしないと、果てしない情報量がコントロールしきれないことも理解している。
そして、マーケティングの世界でも効果を高めるためにデジタルの特性を最大限に活用しようとしている。
もはや、デジタルからは逃れて生きていくことは難しい。
でも、デジタル情報の中で溺れそうになっている若者たちの気持ちを考えると、この先は別のアプローチも必要なのかなと思う。
でないと、デジタルは本当に人間にとって毒親になってしまい、自立できないまま、自分という存在を認められない人間が溢れてしまう世界が待っているような気がしてならない。

#エッセイ
#マーケティング
#マーケティング・ジャーニー
#デジタル社会


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