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掌編小説「ほくろ」

 夢を見た。
 そこは高校時代、登校の際に使っていた高崎線の車内で、いつもと違うのは、乗客はわたしともう一人だけということ。それから、そのもう一人が制服を着たわたし自身だということだった。互いにボックス席の斜め前に座り、わたしは、うたた寝する自分の姿を眺めている。相変わらず口元には大きなほくろがあるけれど、化粧気のない頬や長い睫毛に少しどきりとしたし、幼気な無防備さを見て思わず下唇を噛む。なにより、制服を着ているという事実が大きく伸し掛かかった。
 手にはウォークマンが握られていて、そこから伸びたイヤホンが長く垂れた髪を伝って耳元へと続いている。何を聴いているのだろう。昔から流行りの曲などには疎いから、外国の古いロックバンドだったり、あるいはアイルランド民謡みたな、いずれにしても、女子高生が好んで聴くジャンルのものではないのは確かだ。もしかすると、何も聴いていないということもある。今もそうだけれど、イヤホンをしていると、それだけで安心する。黒や紺や灰色の服を着ている時に感じる、守られているという感覚に近い。そこに音楽は必須ではなくて、世界の音がこもって聴こえるという点が大切だった。半分で良い。半分だけ、見たり聞いたりできたなら、きっと無暗に傷ついてしまうこともなくなって、今よりもっと生きやすい。
 やがて電車は次の駅のホームへと入り、停まった。扉が開く。揺れで起きた彼女は軽く目を擦ったあと、電車を降りた。彼女は、わたしがじっと見つめていたことに何も気付いていない様子だった。むしろ、わたしの存在にも気付いていなかった。

 目が覚めるとそこはいつもの六畳一間のアパートだった。耳元に迫るバイクのエンジン音と、カーテン越しに滲んだ薄く青白い光で、今が明け方なのだと分かる。ついこの間まで続けていた仕事が朝早かったせいで、もう行かなくても良いと分かっていても、まだ自然と決まった時間に目を覚ましてしまう。
 完全に頭が冴えてしまったから、トイレを済まして窓際にある姿見の前に立つ。カーテンを開けて部屋に光を入れる。遠く離れた街並みの向こうに、青や紫の絵具を溶かして透かしたみたいな空が広がる。見ていると、頭の隅にある空白を刺激されて、不意に悲しくなってしまいそうだったから目を逸らした。
 姿見で自分を見ても、本当にそれがわたしなのか自信がなかった。自分ってこんな感じだっけ、と心の中で呟く。腕をつねってみたり、爪を噛んでみたりする。わたしがわたしであることを確かめるみたいに。自分が自分じゃないことを証明するように。でも結局、口元にある大きなほくろを見て、あの頃と少しも変わっていないことへの喜びや悲しみを抱いたまま、複雑な郷愁にため息を漏らすだけだった。

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