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ドーナツホール

「ドーナツに穴が空いているのはなぜなの?」
 わたしのした何気ない問いに、彼はしばらく沈黙したあと、「なぜだと思う?」と返した。わたしは小さく首をひねる。すぐには思いつかなかったので「知らない」と答えると、彼は「そっか」とつまらなそうに呟いた。わたしの注文したフレンチ・クルーラーを無愛想に手渡しながら、「じゃあまた今度だね」と言い残して彼はカウンターの裏へと消えてしまった。もどかしく靡く暖簾を見つめながらフレンチ・クルーラーを囓る。欠けた穴をぼんやり眺めながら口の中で味を噛みしめる。けれど、いくら時間をかけても味はしないし、空腹を紛らわすことはできなかった。そもそも、空腹かどうかなんて、わたしには初めから関係のないことだけれど。

 彼とは同じ大学に通っていて、同じ授業を専攻していた。そもそもわたしは入学当初から彼を知っていて(最初の歓迎会で名前と顔を知った)、彼のSNSを偶然見つけたときには、好きなアーティストや小説家が一緒なことにちょっとした運命を感じた。もう少し彼に近づいてみたい想いはその頃からひっそりと秘めていた。
 彼の働くドーナツ屋さんに通うようになって二ヶ月くらいが経つ。大学にほど近い個人経営のドーナツ屋さんで働く彼を見つけたのは、わたしがちょうどアルバイトから帰る途中だった。随分と夜遅くまでやっているお店だな、と思いながら店内を覗いたのが最初だった。以来、わたしはアルバイトの帰りに通うようになり、時には気を遣ってあえて立ち寄らなかったりしながら、彼との距離感を測っていた。
 その間、彼はわたしの名前を呼ぶこともなく、店員と客以外の会話で弾んだことは一度もなかった。先日、思い切って遊びに誘ってみたけれど、彼は相変わらずの調子だった。

 後日、彼は急に授業に姿を見せなくなった。構内ですれ違うこともなかった。彼のSNSはチェックしていたけれど、数日前に発売したCDについて感想を述べているだけで、動きはない。アルバイトの日以外も店を訪れてみたけれど、彼の姿はなかった。彼のいないドーナツ屋さんは、ほんのり甘い香りのする白い箱みたいだ。
 そのまま月日は流れ、彼のいない授業に出る意味は感じられなかったけれど、とりあえず単位だけは取った。進級してからも彼の姿は見かけない。彼はいないけれど、試しにドーナツを買ってみた。ついでに、別の店員に彼について聞いてみた。彼はわたしがフレンチ・クルーラーを買った翌週、アルバイトを突然やめてしまったらしい。

 得体の知れない空虚を胸に抱きながら帰路に就く。涙のあとのように滲む青紫の西の空が綺麗だった。駅のホームでさっき買ったドーナツを鞄から取り出す。真ん中に空いた穴を見つめながら、彼の言葉を反芻する。その穴を通して向かいのホームに並ぶサラリーマンや学生のくたびれた様子を眺めながら、いつの間にか彼の姿を探していた。でもそれはあまりに虚しい行為に思えてきて、考えてみればこれまでの行為すべてが無意味に感じられて、突然泣きだしてしまいそうになる。わたしはドーナツを囓り、満たされないお腹の底から込み上げてくる味のない悲しみを紛らわすしかなかった。

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