初めて読む句集が『青水草』な人へ
(1)俳句は分からなくてもいい
まず、俳句は、作者と読者という2人の間の「共通感覚」を土台にして成り立っています。
この土台が地続きになっていると「分かる」、繋がっていないと「分からない」、になります。
ちなみに「季語」は土台の1つです。
この土台のことが省略されて、隠されているから、俳句は「分かりにくい」と印象されがちなのです。
なお1句1句によって、土台が変わります。
だから、1冊の句集の中でも、そっちの句は分からないけど、こっちの句は分かる、ということが起こります。
それでいいのです。
分からない感覚があるからこそ、共通の感覚が得られた時の喜びは大きい。
そして、たとえ分からなくても、分からないことを楽しめばいいと思います。
自分の知らない世界があって、それを俳句というよく分からない言葉にしている人がいるんだなあ、と。
その句が本当に分かっているかどうかなんて、誰にも分からないのです。
また、1句の解釈はひとつではありません。色んな解釈があっていいのです。
だから、まっさらな気持ちで、1句読んでみてください。
分からないな、と思ったら、またまっさらな気持ちでもう1句。
その繰り返しでいいのだと思います。
大事なのは、句を読んで、自分の中に新鮮な感情が生まれるかどうか。
もし本当に分からないことを知りたいと思ったら、その言葉をネットや、辞書や、歳時記で調べたり、詳しそうな人に聞いてみてください。
新たな面白みを感じることができるかもしれません。
(2)主語は省略されている
(1)で、俳句は「共通感覚」の土台が省略されているということを言いました。
もう一つ、「誰が」という主語も俳句では省略されていることが多いです。
では、省略された主語は「誰」でしょうか?
そうです、その俳句を作った作者です。
だから、想像力をぐぐっと働かせて俳句を読むと、その後ろにいる作者の姿が見えてきます。
『青水草』の場合の主語は、作者=鈴木光影。自分の内面が見られているようで、恥ずかしくもあるのですが…。
また、主語が作者以外の場合もあります。作者が誰か第三者の姿を見て俳句にした、というパターンもありますね。
もう一つある、と僕は考えています。
それは読者=あなた、です。
俳句は主語が曖昧になっているので、読者自身が俳句の世界に入って行って、その句の主語になって、体験をすることができるのです。
言葉オンリーの、超アナログなVRみたいなものです。
作者と読者の目線が混じり合っている、とも言えるかもしれません。
いまは、情報過多、説明過多な世の中です。
読むことで、俳句という少ない言葉の連なりに、省略された主語を読者が補っていく。
人それぞれ、答えはひとつではありません。だからこそ「あなたはどう読んだ?」と、他の人とのコミュニケーションのきっかけになると思います。
いま、俳句を主体的に「読む」ことの効用が見直されてもいいのではないか?と僕は思っています。
(3)切れは出会い
普通の文章と俳句を読むときの大きな違いとして知っておいてほしいのが、「切れ」です。
「切れ」には、言葉のリズムとしてそこで一旦切れる、言葉の意味がそこで一旦切れる、などいくつか種類があります。
また「や、かな、けり」=切れ字とか、古典の授業で習ったような気がしますね。
でもそういう細かなことは置いておいて、僕が「切れ」の本質とはこういうことじゃないか?というのを書いてみたいと思います。
切れは出会いです。
例えば、AさんとBさんが「出会う」ためには、最初からその2人が知り合いだったら「出会い」になりませんね。
だから「出会い」には、少なからず驚きが伴います。
そして多くの素敵な「出会い」には、何故だか分からないけど良い、という感覚があります。
俳句を読んでいくと、「え?唐突に出てきたこの言葉、つながりがなくて意味わからん」と思われることもあるかと思います。
そこでは、作者が、AさんとBさんを一句の中で出会わせている可能性があります。
どのような出会いを演出するかが作者の腕の見せ所。料理で言えば「マリアージュ」のようなものかもしれません。
そこでは、当たり前ではない、新鮮な言葉の組み合わせが、豊かな読者体験をもたらします。
俳句の用語で「取り合わせ」とも言います。
多くは季語と、それとは直接的に関係のない事柄が取り合わされ、その間に「切れ」が挟まれます。
この「切れの感覚」を体感的に覚えると、俳句の世界が格段に広がると思います。
ちなみに、実は僕の作風はそんなに分かりやすい「切れ」は多くないように思います。
が、無いこともないと思うので『青水草』を読んで、それを体感してみていただけると嬉しいです。
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