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髙田正子『日々季語日和』書評 ―愛おしき「季語の現場」の日々

高田正子著『日々季語日和』

帯に記されている「日本経済新聞と毎日新聞連載のエッセイ集」と聞けば多少おカタい印象も与えようが、そんなことはない。すべて見開き二ページで完結、気軽に開いた頁から読み始められる。どのエッセイにもかならず一つ以上の俳句と季語が引かれる。季語といっても、分厚い歳時記の中で眠っている言葉ではない。近隣の散歩や庭の手入れ、家族との屈託のない会話など、髙田さんの日常生活の中で生きた言葉として綴られる。

髙田さんの故郷は岐阜。子育てをしながら数年過ごした大阪、在住の神奈川。それら土地土地の記憶が、繰り返す四季と引用される名句の中で反響し、輝く。

夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村
川を見ると故郷を思い出す。私は、朝の連ドラ『半分、青い。』と昨今の猛暑でにわかに全国区に躍り出た岐阜の生まれである。幼いころには長良川で泳いだこともある。もっとも、川原の石に足裏を灼かれながら水辺まで走った記憶ばかりが生々しいのだが。
(「川のほとりに」より)

生活圏内の多摩川を眺めていると、俳句を媒介して、故郷の川を身体で感じた記憶が蘇る。〈さまざまの事思ひ出す桜かな〉は芭蕉の名句だが、季語は時空を飛び越えて過去と現在を結び付ける。それは十七音の極小に無限を託しうる俳句の詩形式とも呼応する。限られた生活圏に暮らし同じような日常と思っていても、俳句と生きる人生は、広く、深い。

さて、季語にまつわるエッセイの名手といえば髙田さんの師・黒田杏子だろう。今年三月、桜の開花直前に急逝された。髙田さんには『黒田杏子の俳句 櫻・螢・巡禮』(深夜叢書社)の著書もある。黒田氏の俳句や随筆、人格からダイレクトに受け取ってきたことも多いに違いない。

「季語の現場に立つ」ことをモットーとした黒田氏が全国を積極的に旅したのに比べて、髙田さんはより日常の生活空間をエッセイの舞台としている。もちろん旅先でのエピソードもあるが、ほとんどは日常の延長である。平凡に思える一日も「季語の現場」なのだ。タイトルの「日々季語日和」には、そのような普段の「日々」を心ときめく「日和」に変貌させてくれる俳句と季語の力が込められている。

若い人はおのずと若い句を作る。中には若くないと読み取れない句もある。が、作者の意図を超えて、読者の年齢相応に読み得る句もある。もしかすると名句の条件とはそんなところにもあるのではないか、と近ごろ思っている。
(「冬の星」より)

髙田さんは上田五千石の句〈かぞへゐるうちに殖えくる冬の星〉を、自身が阪神大震災後の夜空に見た星と重ね合わせ、戦慄する。もちろん五千石自身にその意図は無い。震災や疫病禍など非日常の日々にもまた、俳句は寄り添ってくれる。

―「現代俳句」8月号より転載

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