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「異彩」「超現実的幻想」の同郷俳人―石井露月と安井浩司

石井露月の「365日」

今年二〇二三年は、秋田県の俳人・石井露月(1873~1928)生誕一五〇年の節目の年である。文学を志し秋田から上京した露月は明治二十七(一八九四)年に正岡子規を訪ね、新聞「小日本」の編集に加わる。のちに高浜虚子、河東碧梧桐、佐藤紅緑と並んで「子規門下の四天王」と呼ばれるようになる。子規には「碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす」とまで賞された。元々患っていた脚気の再発もあり、故郷秋田・女米木に戻ったのち、嶋田五空らと「俳星」を創刊。また地元の医師として、地域活動家としても地域のために情熱を注ぎ尽力した。

そんな露月生誕一五〇周年にあたり、石井露月研究会(会長・工藤一絋氏)の周年事業として『露月365日』(春季・夏季編)が刊行された。これは、『露月全句集』(秋田市雄和図書館・2010)を元に、同研究会の副会長・武藤素魚氏が一年365日それぞれの日にふさわしい露月の一句を選び、鑑賞文を付したものである。

地元秋田の研究会の編集であり、故郷の大俳人を後世に継いでいきたいという強い思いが伝わってくる。また、一日ごとに異なる季語が使われた句を掲載していて、露月の句の多彩さを知ることができると同時に、日めくりカレンダーのように一日ずつ読み露月が生きて感じただろう秋田の四季を追体験するような楽しみもある。
試みに、三月一日の句と鑑賞を引いてみよう。

   季語「春吹雪」
  思はずの月ハ朧に春吹雪 (大正12年)
 毎年のことであるが、三月に入って少し暖かさを感じるころ、思わぬ雪に見舞われることがある。朧にけぶる月を見るべく、庭に出てみると、一面、息を飲むほどの吹雪であった、と言うのである。
 四季折々、最も雅趣あるものとして「雪・月・花」が挙げられるが、掲句には春雪の清浄さと朧月が詠み込まれ、何とも贅沢で風雅な一句。春の吹雪は、本格的な春を迎えるための北国の厳粛な儀式でもある。 
『露月365日』

「春吹雪」は、季語「春の雪」の傍題だが、歳時記の例句としてあまり見られない。雪国特有のものであろう。また、素魚氏の「本格的な春を迎えるための北国の厳粛な儀式」という鑑賞から、その土地の生活者の季節の変わり目の実感を教えてもらえる。そこでは「朧月」との季重なりも気にならない。というよりも季重なりというルールから自由になって、北国の自然とその地に生きる人間の情緒が無理なく描かれている。月にかかっていた朧がいつの間にか雪雲になり、吹雪に包まれるという春の夜の天気の急な移り変わりに臨場感がある。「思はず」という感慨も、自然にこぼれ出た生活者の言葉である。このような、歳時記的な「春の雪」の紋切り型の情緒ではなく、生活実感に根ざした季語の使用による俳句は、露月の俳句の魅力である。「地貌季語」として季語が多様化していくだろう現在の地方の俳句にとっても、注目されていくべき俳人であろう。

露月の「雄壮警抜」

東北ゆかりの若手俳人による俳誌「むじな」の2022年号の特集で、「【勉強会】東北の先人の俳句を読もう」として、石井露月は五人の俳人のうち一人として取り上げられている。浅川芳直氏の緒言「今、古い俳句を読み直す意義」では、「奥羽調」を説いた露月の邸宅「山廬」(山梨の飯田蛇笏・龍太の生家「山廬」よりこちらが早いことに驚いた)に多くの俳人が訪ねたことなど、当時の露月の存在感が紹介されている。誌面掲載前に事前に開かれたオンライン勉強会の石井露月の会には私も参加させてもらった。
露月勉強会の発表担当者は、秋田出身の若手俳人、斉藤志歩氏。勉強会は斉藤氏により露月の生涯やその俳句の特色「雄壮警抜」などが発表された。その後、事前に配布された「石井露月集」などからの斉藤氏の十句選と鑑賞、さらに参加者の十句選を合わせて、句会形式で露月の句を読み合う、有意義な時間だった。
斉藤氏の選で印象に残った句を挙げよう。

春立や蒲団清らに雨を聴く  露月
鉱脈のいづち走れる夏野かな
行年の一日の晴を惜みけり

一句目は、他の参加者の選も含めて最も票を集めた句で、立春の季感が「蒲団清ら」「雨を聴く」によって情感豊かに表されている。
二句目はまさに「雄壮警抜」、正岡子規が『俳諧大要』で「善し」とした「壮大雄渾」な景、大地に漲る強大な鉱脈の地力と広大な夏野を現前化させる。現代に読んでもその雄壮さに胸のすくような思いがする。
三句目について、年末は曇りがちで晴れの日は大切に惜しむべきという「雪国に暮らす人間の率直な感覚」に共感すると斉藤氏は解説した。ここでも、〈思はずの月ハ朧に春吹雪〉の句に共通する、その土地の生活実感がある。
なお私の露月十句選の中の三句も紹介してみたい。

張りつめし氷の中の巌かな  露月
僧死んで月片割れぬ峯の上
地震やんで日暮れて秋の雨がふる

一句目、固く大きな自然物である巌が冷たい氷に包まれ、氷とも巌ともまたは名付け難い何かとも言えるような巨大な物体と化している。北国の得体の知れない霊力が結晶したものを詠んでいる。そして作者はその張りつめた様を凝視している。
二句目、僧の死により、彼の世への入り口がひらいたかのような月片の割れ。峯は霊山であり此岸の端だ。すぐそばにある超現実の世界、死後の世界が描かれているようだ。
三句目、露月の生きた当時も地震に襲われたときの日暮れの不安感は変わらなかった。東日本大震災で東北は甚大な被害を受けたが、その時は雪であった。また夜は満天の星を見たという被災者もいる。秋の雨は天からの何らかの啓示のようでもあるが、ここでも無力な人間はただ降られるままだ。
子規に称賛された理由も頷ける、露月の句の多彩さと時に現実を超えていく想像力、現代に通じる魅力を感じた。

安井浩司の秋田

石井露月が没してから八年後、秋田県能代市に誕生した安井浩司が、昨年亡くなった。生前から準備をしていた書、句集『天獄書』、『安井浩司読本Ⅰ 安井浩司による安井浩司』『安井浩司読本Ⅱ 諸氏百家による安井浩司論』が金魚屋プレスより刊行された。『読本ⅠⅡ』の編集委員は坂卷英一郞、大井恒行、九藤夜想、鶴山裕司の各氏である。まずは『読本Ⅰ』の自選百句から作品八句を引いてみる。

渚で鳴る巻貝有機質は死して 『青年経』
鯛よぎる青葉の扉に渦ひとつ 〃
逃げよ母かの神殿の加留多取り 〃
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 『阿父学』
麦秋の厠ひらけばみなおみな 『密母集』
稲の世を巨人は三歩で踏み越える 『霊果』
睡蓮やふと日月は食しあう 『汎人』
山や川されど原詩の鱒いずこ 『四大にあらず』
天類や海に帰れば月日貝 『空なる芭蕉』
さそり星はたき落とさん草の家 『烏律律』

「前衛的」や「難解」と評されることの多い安井浩司の俳句だが、秋田の土地を創作の背景として、「原詩」としての俳句を追求した俳人であったことがおぼろげながら見えてくる。ちなみに秋田で鱒といえば、県北部の田沢湖のみに生息していたとされる絶滅種「クニマス(国鱒)」が想起される。

またその『読本Ⅰ』の巻末には「生前ほとんどプライベートを明かさなかった」という安井浩司の自筆年譜が収録されている。難解とされる浩司の俳句に対するのに、浩司の自意識からの手掛かりとして貴重である。

その年譜中、一九五二年(十六歳)に「文芸部へ入部」「いよいよ俳句生活開始」「石井三千丈の〈俳星〉に関係。句らしいものを作った」「俳星句会に出席」とある。ここで「俳星」を創刊した石井露月が繋がる。ちなみに露月も医者だったが、浩司は歯科医だった。

なおこの自筆年譜の書き出し、一九三六年(満〇歳)には自身が生を受けた地、秋田県能代市材木町の地理的な特徴が次の様に記されている。

「米代川の川べりに大きな貯木場と製材工場あり。海(日本海)、川(米代川)、山(出羽山稜)の遠近法の中に眼を開く。/丑吉(鈴木注 浩司の父方の祖父)能代町(能代市)に出て製材業をおこす(以下略)」
『安井浩司読本Ⅰ』

秋田は古くから天然秋田杉の産地であり、県北部の米代川上流で伐採した木材を筏を使って沿岸の能代まで流送し、そこから敦賀など全国へ出荷していた。米代川は北秋田地域や能代にとって生活の源であるとともに、浩司にとっても原体験の自然であった。

浩司七歳の時、「梅雨の川の急流で船遊びをし、河口に流されて九死に一生をえた(今でもこの恐怖感がある)」とある。人を生かしも殺しもする計り知れない自然の闇を、浩司は少年期に体験した。同書のインタビュー(二〇一四年・聞き手 鶴山裕司)では、「生家のあたりに行くと、安井さんの作品世界がちょっとわかったような気になります」との鶴山氏の問いかけに対し、浩司は「何かあるんでしょうね(笑)」と曖昧に答えている。

「海、川、山の遠近法」であり、生まれ故郷の秋田・能代の地が宿す何かが安井浩司の「前衛」俳句の「後衛」に控えているようだ。

石井露月と安井浩司

実は安井浩司はその著『聲前一句―私感俳句鑑賞』の三十五句の中に露月の一句〈吊したる雉子に遅き日脚かな〉を入れている。露月について多くを読んでいる訳ではないと前置きをしつつ、「その寸歴によれば、正岡子規に接しつつその超現実的幻想は注意を引くこととなったが、何故か、秋田に医を業として帰郷した、といった事柄が記されている。まったく己れ自信を苦笑するしかないのだが、私も露月と同じようなくだりで、つい先程、同郷に帰伏したのであった」と自嘲しつつ露月と自身の符合を語っている。

また掲句については、「虚空の中、垂直に〈吊したる雉子〉の眼にうつるのは、縹緲とした時間の去来だけであろう。空間と時間の切り結ぶところ、月並にない精神の凝点を発見していよう」と評する。

この書の後記には「ここに取り上げたのは、特別の意図のもとに選び出された俳人ではなかったし、決してそれぞれの俳家の名句でも秀句でもなかった。ただ、私自身、折々の失語状態からささやかな発語を誘ってくれた一家一句であるにすぎなかった」と記している。

露月と浩司、時代を隔て、作風も異なるように見える。しかしどこか相通じるものがあるのは、郷土秋田を重要な起点として、いつしかその土地に縛られずに自由な「超現実的幻想」を俳句に結晶させたところではないだろうか。翻ってそれが秋田という地の一つの文化的特色であると言えるのかもしれない。

現在、アンソロジー詩歌集『多様性が育む地域文化詩歌集―異質なものとの関係を豊かに言語化する』を公募中であるが、直接的にせよ間接的にせよその土地が受け継いできた文化が表現者を通して詩歌作品に息づいていることと思う。多様な「異彩」が協演されることを期待している。


「コールサック113号」俳句時評より転載

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