PS.ありがとう 第3話(読了3分)
東京支店は以前からあるが、本社を東京に移転させようという話があり、営業部長をし、大阪ばかりではなく東京の営業部もまとめている祐輔に、いずれ本社となる東京で営業本部長として白羽の矢がたったのだった。
もともと祐輔は東京支店勤務で入社をした。瑤子との出会いは東京の学生時代の同僚の紹介だった。2人とも地方出身で東京の大学に進学し、東京で就職していた。ずっと東京で暮らしていくのだと思っていた。
祐輔の会社員としての人生は順調だった。同僚の中では一番早く役職がついた。比較的仕事ができるのだろう、いったん役職がつくととんとん拍子に部長にまで成り上がった。異例の抜擢だと本人は言っていた。
転機は祐輔が32歳、瑤子が30歳の時に訪れた。大阪本社勤務になったのだ。本社勤務は普通に考えれば栄転だ。
もう異動はないかもしれないから、そろそろ家でも買おうか、という時期だった。
本社勤めの役職者には社宅が提供される、それだけだ、大阪に家族そろって引っ越した理由は。ずっと東京で生活ができると思っていた瑤子には、大阪への異動は晴天の霹靂だった。5年辛抱した。そろそろ大阪で家を買おうか、そんな気持ちになったこともある。でも、また東京で暮らしたい、どうしてもあきらめられなかった。
だから今回の転勤話は瑤子にとって願ってもないチャンスだったのだ。
単身赴任でいいという祐輔の言葉とは半面、東京には一緒に行きたい、捨てきれない街への思いは大きくなるばかりだった。調子が悪くなった電子レンジを買い替えようかと思っていたが、引っ越すのならいらないか。
一緒に東京に行くなら子供たちの学校のことをも考えなければならない。色々なことが一気に押し寄せてくる。日を追うごとに胸の中に浮かれた気持ちと同時に重いものが蓄積されていく。
「私も東京に行けるかしら」
控えめに聞く。
「異動の多い会社だからさ、ずっといるとも限らないし、いいよ俺一人で、子供の学校のこともあるしさ、週一は帰ってくるから」
家の中で関西弁を使わないというのは2人のルールだった。大阪に来るときにこれだけはと約束したことだ。子供にも標準語でしゃべるようにしつけていた。
祐輔の返事は前回と変わらなかった。特に祐輔と週に一回会いたいというわけでもない。東京で家族水入らずで暮らしたいだけだ。その後また大阪に戻るというのであれば、その時に単身赴任すればいいじゃないか。一緒に行けないと思うと、カタログの表紙の電子レンジの写真が急に視界の中で大きくなった。
どうせ買うなら一番高いのにしよう。胸の中でぼんやりしていた気持ちが固まった気がした。
「本当にごめんなさい」
美里ちゃんのお母さんが会うなり頭を下げた。横で美里ちゃんが泣いている。
「大丈夫よ、美里ちゃんママ、大したことないみたいだから」
保育園から美羽がけがをしたと連絡があり、いつもより早い時間にお迎えに来ていた。
滑り台の上で順番待ちをしていた子が押し合いになって、端にいた美羽が押され、後ろ向きに滑り台を滑り落ちたらしい。滑り降りたところで変な形で手をついたために、手首を捻挫しているようだった。とりあえず応急措置はしてあるがすぐに病院にいかなければならなかった。
保育士の方も3人現場にいたものの、対応できずに申し訳なかったと深々と頭を下げられた。当の本人はなにごともなかったように普段と同じように笑っているから、けがは大したことはないのだと思う。
「今から病院に行って、連絡いれますから、あまり心配しないでね」
美里ちゃんママにそう言って、美羽といっしょに病院に向かった。
「ママ、みうね、痛くないよ。だから病院行きたくない」
病院が怖いのか、捻挫していない右手で瑤子のシャツを引っ張る。そんな態度に心に切なさが充満する。
「美羽、大したことないと思うけど、念のためにレントゲン撮るだけよ。痛くないから安心して」
子供に怪我や病気は付きものだとわかっていても、替わってやれればと胸が締め付けられるのはいつものことだ。
診断は軽い捻挫だった。
「3日くらいは腫れが続くでしょうけど、すぐに治ります。痛みもないみたいですから、安心してください」
ドクターの言葉に胸をなでおろす。
「良かったねたいしたことなくて」
「だから言ったでしょ、ママ、病院行かなくっていいって」
無邪気な子供の言葉に救われる。
「美羽ちゃんお手紙書いておこうか」
夕飯とお風呂を済ますと、瑤子は美羽と一緒に並んでテーブルに座った。子供用の便せんを広げ、美羽に色鉛筆を渡した。
「美羽ちゃん、けが大したことなかったよって、美里ちゃんにお手紙書こうか」
美羽はうん、と言って嬉しそうに絵を描き始めた。
瑤子も美里ちゃんのママあてに手紙を書いた。大したケガじゃなかったこと、美里ちゃんのせいじゃないこと、だからこれからも今まで同じように接してね、といったことなどだ。
「できた」
美羽が誇らしげに瑤子を見上げる。横からのぞき込む。便せんの上半分に3人の女の子が手をつないでいる絵が描かれていた。
「これはどういうことを書いたのかな」
あえて質問してみる。
「あのねえ、美羽と美里ちゃんと、もえちゃんで散歩しているところ」
「そうなのー、上手ねえ。これお手紙にして美里ちゃんに渡そうね」
そう言うと美羽はとても嬉しそうな表情を見せた。
瑤子は手紙を折ろうとして、ふと手を止めた。もう一度手紙を開く。
“PS.心配してくれてありがとう”
文章の最後にそう付け加えて、美羽の絵といっしょに折り畳み封筒に入れた。“ありがとう”と書きながら心が躍った。感謝の気持ちを表すということはとても気持ちのいいものだと改めて実感した。
封を閉じているとレンジのカタログが目に入った。手紙を書いた充足感からなのか、胸に引っかかっていたものがすっと落ちた気がした。
手紙の効果は思っていた以上だった。美里ちゃんママはとても安心したようで、以前にも増して話しかけてくるようになった。
「美羽ちゃんママ、手紙ありがとうね。あれもらってとても安心したの、これからも仲良くしてね、美羽ちゃん」
美里ちゃんママは美羽の手をとって話しかけてくれた。保育園の親関係はいつ何がおこるかわからない。だからこういう仲間はいないよりいる方がいい。長女が保育園を経験している分、知恵がついていた。
PS.ありがとう 第4話に続く
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