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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 5 175 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 5 光秀の壮年時代 

1550年代、光秀の壮年時代。

この頃、鉄砲が普及し始めていた。

 天文十九年1550
 同七月十四日。
 京である。
 細川晴元軍と三好軍の間に、市街戦があった。
 この戦いで、鉄炮による戦死者が初めて記録された。 

  十四日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
  三好人数、東へ打ち出で、見物、
  禁裏築地の上、
  九つ過ぎ時分迄、各(おのおの)、見物、

  筑前守(三好長慶)は、山崎に残ると云々、
  同名日向守・きう(弓)介・十河民部太夫(一存)以下
  都合一万八千と云々、
  一条より五条に至り取り出で、
  細川右京兆人数、足軽百人計(ばか)り出合わせ、野伏これ有り、
  きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり死すと云々、
                          (「言継卿記」)

土岐頼芸は、まだ守護の座にあった。

 同十月十日。
 室町幕府は、美濃の土岐頼芸に、来正月の垸飯(おうばん=饗応)のため、
 要脚(=費用)を命じた。
 この時点で、幕府は、頼芸を美濃の国主と認識していた。

  十日、幕府、美濃土岐某ヲシテ、明年ノ垸飯要脚ヲ進メシム、
                          (「史料綜覧」)


          ⇒ 次回へつづく

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