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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 85 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出 

天正十年1582、三月三日。

 二月十二日、信忠、出陣。
 美濃から信濃へ向かった。
 「織田の大軍勢、北上」
 破竹の進撃である。
 その報に、武田の将兵は、戦闘意欲を失った。
 三月一日、高遠城、陥落。 
 この時点で、武田軍は、崩壊した。

信忠は、諏訪に進出した。

 上諏訪一帯を焼き払った。
 
  三月三日、中将信忠卿、上の諏訪表に至つて、御馬を出だされ、
  所々御放火。

 
 神々にとっては、迷惑この上ないことである。
 神殿・伽藍は、一時の煙と化した。
 牛一は、これを「仕方がないことだ」と書いている。
 戦国時代である。
 これが、当時の風潮だった。
 
  抑(そもそ)も、当杜諏訪大明神は、
  日本無双の霊験殊勝、七不思議、神秘の明神なり。
  神殿を初め奉り、諸伽藍悉く、一時の煙となされ、
  御威光、是非なき題目なり。

 
 高島城、開城。
 安中氏、退去。
 織田長房、これを受け取る。
  
  関東あん中、大島を退出の後、又、諏訪の池はづれに、高島とて、
  小城あり。
  是れへ楯籠り、拘へ難く存知、
  当城も、津田源三郎(織田長房)へ相渡し、罷り退く。
                          (『信長公記』)

 信房は、信忠の弟。
 信長の四男である。 
 幼名、坊丸。
 幼少の頃、岩村城主遠山景任の養子とされた。
 この信房、なかなか数奇な運命をたどる。
 元亀三年1572、武田(秋山虎繁)により、岩村城、落城。
 人質として、甲斐へ送られた。
 天正八年1580、和睦交渉により、織田に返還された。
 同九年1581、父信長と対面。
 同十年1582、六月二日。
 二条御所にて、信忠(享年26)とともに討死。
 生年不詳。
 若すぎる死であった。 


          ⇒ 次回へつづく 


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