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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 168 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信秀は、西美濃大垣城に兵を配置していた。

 城将は、織田播磨守。
 名は、不明。

  先年、尾張国より濃州大柿(垣)の城へ、織田播磨守入れ置かれ侯事。

道三が大垣城を攻めた。

 同年、十一月。
 四年前、道三は、稲葉山城下で織田軍に大勝した。
 *【参照】163

 そのことがあった。
 美濃勢は、勢いづいていた。
 「国盗り」
 すなわち、美濃一統。
 道三は、織田方の手にある大垣城を攻めた。
 
  去る(天文十三年)九月廿二日、
  山城道三、大合戦に打ち勝つて申し様に、
  尾張者は、あしも腰も立つ間敷候間、
  大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、
  近江のくにより加勢を憑み、
 
  霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。

                          (『信長公記』)

 ここで、不思議なことが起きた。
 
  爰に希異の事あり。
  去る(天文十三年)九月廿二日の大合戦の時、
  (討死した)千秋紀伊守、(藤原)景清所持のあざ丸を最後にさゝれたり。
 
  此の刀、(斎藤方の)陰山下掃部助、求め、さし候て、
  西美濃大柿の並び、うしや(牛屋)の寺内とてこれあり。
  成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、
  (織田方が)さんざんの悪しき(=強力な)弓にて、
  木ぼう(棒=矢じりの一種)をもつて、
  城中より虚空に、人数備へ(斎藤方)の中へ、くり懸け侯へば、
  陰山掃部助左のまなこにあたる。
  其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。
 
  其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)所へ廻り来たり。
  五郎左衛門、眼病、頻(しきり)に、相煩ふ。
  此の刀所持の人は、必ず目を煩ふの由、風聞侯。
  熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。
  これにより、熱田大明神へ進納侯てより、
  即時に、目もよく罷(まか)り成り侯なり。
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく

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