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本能寺の変 1582 上総介信長 9 228 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 9 斯波義銀の裏切り 

吉良・石橋・武衛三人、御国追出しの事。

 これについて、年次がよくわからない。
 おそらく、桶狭間(永禄三年1560)の少し前の頃。
 それに、連動したものではないか。

 二の江の坊主(服部左京助)が、再び、登場する。
 
  一、尾張国端、海手へ付けて、石橋殿御座所あり。
    服部左京助、駿河衆(今川勢)を海上より引き入れ、
    吉良・石橋・武衛仰せ談(かた)られ、

今川義元は、尾張の西海岸を狙った。

 「駿河衆を海上より引き入れ」、とある。
 黒幕は、今川義元。
 海上から、軍勢を入れようとした。

信長は、これに気づかなかった。

 暫くの間、この動きに、気がつかなかったようである。

密事が露見した。

 永禄四年(1561)のこという。
 義元が、桶狭間(永禄三年五月十九日)で討死した後である。
 
  御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞こえ、

信長は、斯波氏を追放した。

 これすなわち、大義名分。
 最早、義銀は邪魔者にすぎない。
 信長は、躊躇しなかった。  
 
  則ち、御両三人、御国追ひ出だし申され侯ひしなり。
                          (『信長公記』) 

信長の下剋上である。

 これで、二度目。
 先ず、守護代清洲織田氏を殺害し、清洲城を乗っ取った。
 そして、今また、守護斯波氏を追放した。
 このような、時代だった。

          ⇒ 次回へつづく


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