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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 232 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

信長は、岩村から国境を越えて信濃に入った。

 同三月十三日。
 「険難節所」
 険しい山中路を越えた。
 この日は、禰羽根(長野県下伊那郡根羽村)泊。
 
  三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。

信長は、勝家に、武田の滅亡を知らせた。

 同日。
 信長は、朱印状を送った。
 宛先は、北国軍の四将。
 柴田勝家・佐々成政・前田利家・不破直光。
 彼らにとっては、大きな刺激。
 「激励」
 さぞや、奮起したことだろう。
 
  信長公御返書の趣、
 
  武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣竿を初め、
  家老の者、悉く、討ち果たし、
  駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せつけられ侯間、
  機遣(きづかい)あるべからず侯。
  飛脚(信忠からの書状)、見及び候間、申し達す(伝える)べく侯。
  其の表(越中)の事、是れ又、存分たるべき(存分に対処すべき)事、
  勿論なり。

    三月十三日                (朱印)
      柴田修理亮殿、
      佐々内蔵介殿、
      前田又左衛門殿、
      不破彦三殿、
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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