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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 80 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

信長は、分国中の関所を廃止した。

 人気は、上々。
 大衆は、大いに喜んだ。
 
  其の後、且は天下の御為め、且は往還の旅人御燐愍(れんびん)の儀を
  おぼしめされ、
  御分国中に数多これある緒関・緒役上げさせられ、

  都鄙(とひ)の貴賎、一同に、忝(かたじけな)しと拝し奉り、
  満足仕り侯らひ訖(おわ)んぬ。                         

 御父 織田弾正忠殿。

 用が済めば、長居は不要。
 信長に、帰国の時が来た。
 
  十月廿四日、御帰国の御暇仰せ上げられ、

義昭は、信長に感状を与えた。

 文言に、「御父」とあり。
 最大限の謝意なのだろう。
 
  廿五日に御感状。
  其の御文言に、

 
   今度国々凶徒等、日を歴ず、時を移さず、悉く退治せしむるの条、
   武勇天下第一なり。
   当家の再興、これに過ぐべからず。
   弥(いよいよ)、国家の安治、偏(ひとえ)に憑(たのみ)み入るの外、
   他なし。
   尚、藤孝・惟政申すべきなり。
     十月廿四日                 御判
       御父 織田弾正忠殿
 
   御追加
   今度、大忠に依つて、紋桐、引両筋遣はし侯。
   武功の力を受くべき祝儀なり。
     十月廿四日                 御判
   御父 織田弾正忠殿
 
  と、なし下され、
  前代未聞の御面日、重畳(ちょうじょう)、詞(ことば)に書き尽し難し。
                          (『信長公記』)

          ⇒ 次回へつづく 

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