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本能寺の変 1582 上総介信長 2 194 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

信長は、清洲を攻めた。

 同七月十八日。
 即座に反応。
 攻撃を命じた。
 織田軍あげての出陣だった。

中市場の合戦。

 先手は、柴田勝家。
 足軽衆の中には、太田牛一の姿もあった。
 勝家の軍勢は、山王口から北北西に向かって激しく攻め立てた。
 
  一、七月十八日、柴田権六、清洲へ出勢。

    あしがる衆、我孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助(牛一)・
    木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎、此れ等として、
    三王口にて取合ひ、追ひ入れられ、

    (清洲勢は)乞食村にて、相支ふること叶はず。
    誓願寺前にて、答へ(=応戦)候へども、
    終に、町口大堀の内へ追ひ入れらる。

      *三王口 日吉神社 愛知県清須市清洲2272
      *中市場 不明
      *乞食村 不明
      *誓願寺 不明
      *大堀  清州東小学校付近 愛知県清須市清洲2576 

信長の勝利である。

 長槍隊が、清州勢を圧倒。
 多くの重臣たちが討死した。 
 
    (清洲の)河尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀殿、切つてかゝり、
    二、三間扣(たた)き立て侯へども、
    敵(=信長勢)の鑓は長く、こなたの鑓はみじかく、
    つき立てられ、

    然りと雖も、一足去らずに討死の衆、
    河尻左馬丞・織田三位・雑賀修理・原殿・八板・高北・
    古沢七郎左衛門・浅野久蔵、歴々三十騎計り討死。

    武衛様の内、由宇(ゆう)喜一、未だ若年十七、八、
    明衣(ゆかたびら)のしたて(仕立)にて、
    みだれ入り、織田三位殿頸(くび)を取る。

天道、恐ろしき事どもなり。
 
太田牛一は、このように考えてた。
 これが、当時の人々の一般的な捉え方だった。        

    武衛様、逆心おぼしめし立つると雖も、
    譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽(たちま)ち歴然にて、
    七日目と申すに、各討死。
    天道、恐ろしき事どもなり。
                          (『信長公記』)

 
       年月       名称     結果   備考
 1522 天文21年4月  赤塚の合戦    △  山口教継
   〃   〃   8月  萱津の合戦    〇  清洲織田氏
 1523 天文22年7月  中市場の合戦   〇    〃


          ⇒ 次回へつづく


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