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本能寺の変 1582 上総介信長 4 201 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 4 道三の援軍 

信長は、荒海を押し渡って、緒川に到着した。

 事は、急を要した。
 強風吹き荒れる中、渡海を決行。
 熱田より、知多半島西岸へ。 
 
  廿二日、以外の大風に候。
  御渡海なるまじきと、主水(かこ)、檝(かじ)取りの者、申し上げ候。

  
  昔の渡辺・福島(大阪)にて、
  (義経と梶原景時が)逆櫓(さかろ)を争ふ時の風も、是れ程こそ侯はめ。
  是非において、御渡海あるべきの間、舟を出だし侯へと、
  無理に、廿里(誤り)計りの所、只半時計りに御着岸。

  其の日は、野陣を懸けさせられ、

 信長自身は、その日のうちに、緒川城に入った。
 水野信元に会い、状況を確認。

  直ちに、小川へ御出で、水野下野守に御参会候て、
  爰許(ここもと)の様子、能々きかせられ、小川に御泊り。

                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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