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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 3 55 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 3 「天下布武」 

斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げた。

 龍興は、城を捨てた。
 舟で、長良川を下り、落ちて行く。 
 
  一、八月十五日、色々降参侯て、
    飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、
    龍興、退散。

信長は、稲葉山城を無傷で手に入れた。

 攻略、成功。
 兵は、損耗させず。 

信長は、美濃を平定した。

 今は亡き父、織田信秀の悲願。
 「美濃の平定」
 ここに、成る。
 程なくして、小牧山から稲葉山に居城を移した。
 
  さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、
  尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。

信長は、井口の名を岐阜と改めた。

 これは、翌年のこと。
 
  井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。
                          (『信長公記』)

斯くして、阻害要因は無くなった。

 都への通路を確保。
 いよいよ、である。


          ⇒ 次回へつづく 


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