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本能寺の変 1582 光秀と信長 4 75 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 4 御父信長 

信長は、京に凱旋した。

 九月二十七日、出陣。
 十月十四日、帰洛。
 十七日ぶりの都であった。

義昭は、本國寺に御座を置いた。

 大衆は、これを喜んだ。

  十四日、芥川より公方様御帰洛、六条本国寺に御座をなさる。
  天下一同に喜悦の眉を開き訖んぬ。
                          (『信長公記』)

 
  十四日、庚寅(かのえとら)、天晴、
  今日、芥川より武家御上洛と云々、
  六条本國寺え御座を移さると云々、
                          (「言継卿記」)

信長は、清水寺に入った。

 斯くして、掃討戦は終わった。
 
  信長も御安堵の思ひをなされ、当手の勢衆を召し列れられ、
  直ちに清水へ御出で。

信長は、大衆に配慮した。

 人気の所以である。
 
  諸勢、洛中へ入り侯ては、
  下々、届かざる族もこれ在るべき哉の御思慮を加へられ、
  警固を洛中洛外へ仰せ付けられ、猥(みだれがま)しき儀これなし。
 

信長は、短期間に天下を平定した。

 表面上は、そう見えた。

  すでに、畿内の逆徒など数ヶ所城郭を構へ、相支ふと雖も、
  風に草木の靡(なび)くが如く、
  十余日の内に悉く退散し、天下御存分に属し、

義昭は、細川管領家の屋敷に御座を移した。

 二人の間、きわめて良好だった。
 正に、「蜜月の時」である。 
 
  細川殿屋形(館)御座として、信長供奉なされ、
  御殿に於いて、御太刀・御馬、御進上。
 
  忝(かたじけな)くも、御前へ、信長召し出だされ、
  三献の上、公儀御酌にて御盃、
  幷(ならび)に、御剣を御拝領。
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく 


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