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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 38 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 1 永禄の変 

世を震撼させる大事件が勃発した。

 永禄八年(1565)、五月十九日。
 辰の刻(午前七時~九時頃)。
 京の都。
 白日の下。
 大衆の面前である。 
 
  先の公方光源院義照御生害、同御舎弟鹿苑院殿(周嵩)、
  其の外諸侯の衆、歴々討死の事。
 

三好氏の下剋上である。

 「永禄の変」、と云われる。
 
  其の濫觴(らんしょう=始まり)は、

  三好修理大夫(長慶)、天下の執権たるに依つて、
  内々、三好に遺恨おぼしめさるべしと兼ねて存知、

  御謀叛を企てらるゝの由、
  申し掠め(謀叛を企て、すきを窺って)、

  事を左右に寄せ(ああだこうだと理由をつけて) 、

  永禄八年五月十九日に、清水詣と号し、早朝より人数をよせ、
  則ち、諸勢殿中へ乱れ入る。 

将軍義輝が殺害された。

 十一歳の時に将軍職を引き継いだ。
 以来、十九年。
 激動する時代の波に翻弄された。
 その最期の姿である。
 享年、30。
 
  御仰天なされ候と雖(いえど)も、是非なき仕合せなり。
  数度切つて出で、伐り崩し、余多(あまた)に手を負はせ、
  公方様御働き候と雖(いえど)も、多勢に叶わず、

  御殿に火を懸け、終(つい)に御自害なされ候ひ訖(おわ)んぬ。

この時、義輝の三弟鹿苑院周嵩も殺された。

  同じく、三番目の御舎弟鹿苑院殿へも、平田和泉を討手にさし向け、
  同刻に御生害。 

大衆は、世の乱れを憂えた。

 「世も末」とは、このことである。
 下剋上が罷り通る時代だった。
 
  誠に、御当家破滅、
  天下万民の愁歎、これに過ぐべからずと云々。
                           (『信長公記』) 


          ⇒ 次回へつづく 

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