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本能寺の変 1582 上総介信長 1 181 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 1 信秀の死 

初めての合戦は、引き分けに終わった。 

 結局、この戦は、勝敗がつかなかった。
 「引き分け」、である。
 
  巳の刻より午の刻(12時頃)まで、みだれあひて、
  扣(たた)き合ひては退く。
  又、まけじおとらじと、かゝつては扣き合ひ、かゝつては扣き合ひ、
  鎗下にて、敵方討死、
  萩原助十郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎。
  あまり手近く侯間、頸は互に取り侯はず。
 
  一、上総介信長公衆、討死三十騎に及ぶなり。 
  一、あら川又蔵、こなたへ生捕る。 
  一、赤川平七、敵がたへ生捕り侯ひしなり。

信長は、この戦いから、多くのことを学んだ。 

 織田勢は、倍する敵を相手に奮戦した。
 小勢ながら、勝たぬまでも、負けなかった。 
 
  入り乱れて、火花をちらし相戦ひ、
  四間、五間をへだて、折り敷いて、数刻の戦に、
  九郎二郎は、うわやり(上鎗)なり。

  其の比(ころ)、うわやり、下鎗と云ふ事あり。
  いづれも、みしりかへし(=顔見知り)の事なれば、
  互に、たるみはなかりけり。
 
  折り(降り)立て(=下馬して)の事にて、馬共は、皆敵陣へかけ入る
  なり。
  是れ又、少しもちがひなく、かへ(返)し進上侯なり。
  いけどりも、かへかへ(=交換)なり。
  さて、其の日、御帰陣侯なり。
                          (『信長公記』)

「鉄炮」について、記述なし。

 最新兵器である。
 その有無については、まだわからない。 


          ⇒ 次回へつづく


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