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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 37 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 1 永禄の変 

藤孝は、信長と同年齢である。

 天文三年(1534)の生れ。
 この年(天正九年1581)、48歳であった。
 父は三淵晴員、母は船橋宣賢の娘。
 兄に、三淵藤英がいる。
 幼少時、細川刑部少輔晴広の養子になった。
 吉田兼見は、母方の従兄弟に当たる。

藤孝は、元々、第十三代将軍足利義輝の家臣だった。

 以下は、義輝に仕えた家臣たちのリストである。
 「御供衆」の中に、その名がある。
 「御供衆」は、最上位の役職。
 藤孝は、26歳にして、すでに幕府重役の一人であった。

  光源院殿(義輝)御代当参衆並びに足軽以下衆覚
       永禄六年(1563)五月 日

   御供衆。    (12名)
 
    大館陸奥晴光。
    同十郎輝光。
    細川中務大輔輝経。
    大館伊予守晴忠
    仁木七郎。
    一色式部少輔藤長。
    細川兵部大輔藤孝。
    上野孫三郎。
    一色兵部大輔輝清。
    畠山尉松。
    伊勢因幡入道心栄。
    同七郎左衛門尉貞知。

   御部屋衆。   (9名省略)
   申次。     (17名省略)
   外様詰衆以下。 (57名省略)
   御小袖御番衆。 (10名省略)
   奉行衆。    (16名省略)
   同朋衆。    (11名省略)
   御末之男。   (7名省略)
   足軽衆。    (27名省略)
                  (「永禄六年諸役人附」前半部分)

この時、光秀は、まだ幕臣になっていない。

 この中に、その名が見えない。


          ⇒ 次回へつづく


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