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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 49 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

義昭は、大きなショックをうけた。

 和睦を進めている最中に。
 「案々図り候条」
 全く、思いもかけぬことであった。
 「不時新たに候」
 義昭は、約束を反故にされた。
 「御無興」
 「言語道断」
 「御手を撃たるゝ」
 その衝撃は、計り知れない。
 
    此方(斎藤義龍)には、兼ねて案々図り候条(くだり)、
    さらに、不事(時)新たに候、
    公儀、御無興、言語道断、御手を撃たるゝの由に候、
    賢察、過ぐ候、

斎藤龍興は、三好三人衆と結託していた。

 侮るなかれ。
 三好の調略。
 「幾重にも存ずるの由」
 近江の六角承禎、のみならず。
 美濃の斎藤龍興、をも取り込んでいた。

    去春已来、三好かたより、種々懇望仕り候、
    そのほか、御調略の筋、幾重にも存ずるの由候ひき、
                           (「中島文書」)
 

細川藤孝は、判断を誤った。

 結果としては、そうなる。
 「大手柄」は、一瞬にして、「大失態」に転じた。
 藤孝は、危うい立場に追い込まれた。


          ⇒ 次回へつづく


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