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ありのままで生きること

こんにちわ。
いつも記事を読んでくださり、ありがとうございます!
今日は、深いテーマですが、
クリシュナムルティの言う【死とは何か】をリアルに見た話を書いていこうと思います。


先日、1ヶ月ほど介護していた雌鶏ヒメちゃんが静かに息を引き取りました。死は特別なことではなく毎日の出来事の続きでした。半月程は、数粒の米と水。最後の1週間は水だけ。ロウソクの灯がどんどん小さくなり消え一筋の煙になって登っていくところを見ているような時間でした。
それはまるで木の葉が落ち朽ちて土になるように。
放置された果樹畑の甘夏が、ただ萎んでカチカチの塊になっていくように。
生まれ変わる必要がなくこの身のまま現世で成仏しますという即身成仏のような最期でした。

ヒメちゃんは2023年4月に知人から譲って頂いた雌鶏8羽の中でも「おまけの2羽」のうちの1羽でした。

首の羽根が無いヒメちゃん

来た当初は、なかなか表現しづらい衝撃的なビジュアルでして、常に他の雌鶏から突っつかれる、首の羽根抜かれてしまう、という状態。尾羽は旗みたいで、背中や翼の羽根は全部「矢羽根」。初心者マーク🔰のように先っぽが全部無い羽根ばかり。

雌鶏達はまず力関係を争いますが、突っつかれやすいタイプの子は、落ち着きがなかったり、身体が小さかったり要領が悪かったり。反対に突っつく方は、賢い、身体が大きい、気が強い、と人間に当てはめてもなんだかわかる。。。

ヒメちゃんは、身体が小さく片目の視力が弱い。動きもちょっと変わっていたからこそ、いじめられる対象だったのでしょう。だけど賢かったからこそ、どんな環境でも生き抜いてここまで生きて来れたのも、見ているとわかりました。


他の雌鶏と距離を保つヒメちゃん。雄鶏達はヒメちゃんが大好きでした。

ヒメちゃんは視力が弱かったため、マムシに首を噛まれたことがありました。石垣の下を掘るのが好きだったのでマムシが居ることに気づかなかったのでしょう。顔が紫色にパンパンに腫れてしまいました。
人間の身体の大きさでもマムシの毒では命を落とす危険があるのに、
なんとヒメちゃんは時間をかけて自力で解毒していったのです。

顔が腫れて別鶏。。

そして、次なるアクシデント、ヒメちゃん4メートルの高さの石垣から落ちてしまいました。蛇毒でヒメちゃんの視界が更に狭くなっていたのはわかっていたのですが、その先が見えなかったのでしょう。ある日、猫のミータマが石垣から下を覗き込んでいて、下からはプープーいう声が聞こえてきました。まさか?!と石垣の下を見てみるとヒメちゃんがうずくまっていました。。。。。
これもまた人間が落ちたら骨折ですめばいいねという高さですが、ヒメちゃん無傷。流石にショック状態だったので、様子を見るために他の鶏達と隔離し養生させていましたが、やっぱり復活。卵までポンと生んでみたり!
この度重なる不運を乗り切っていくのを目の当たりにして、ヒメちゃんは運の良い徳の高い鶏なんじゃないか、と我々も氣づきはじめました。


ちょっとまだ顔が腫れ気味。落ちて養生している間に頭の羽根がフワフワ生えてきました!

単独で養生している間に首の羽根が生えてきたので、突っつかれないようにすれば羽根が全て戻るかもしれない。と、鶏小屋に戻すときも囲いを作って突っつかれないよう工夫しました。するとだんだんと新しい羽根が生えてきて首もふさふさ、全身光り輝く美しい雌鶏になっていきました。

羽根が生え始めたヒメちゃん

美しい鶏に戻って、羽根は光り輝き、時々卵をポロリと生みました。
ヒメちゃんの卵の味はとても優しく、黄身の中心は黄金色に光っていて驚きました。そんな卵を見たのははじめて。
数ヶ月、みんなの中でマイペースに穏やかな毎日を過ごしておりましたが、
春の終わりころから昼間も目を閉じて寝ている時間が多くなって、ちょっと危ないかもしれないと目の届く庭先での介護がはじまりました。


介護が始まったばかりの頃のヒメちゃん。


ミータマが介助してくれています。


水しか口にしていないのに、美しさは変わらず。


まるで銅像のようにしっかりとした立ち姿。

介護の日々はとても穏やかで、ヒメちゃんは一日中寝ていましたが、声をかけると時折起きて水が飲みたい仕草をするので、水を与えました。
もう目を開ける必要が無いヒメちゃん。
あまりに意識が遠くなっていて、声をかけても耳元でヒメちゃ~んと叫んでも届かないときもありました。
毎日朝起きるとヒメちゃん生きているかなと確認。朝はわりと活発でくるくると回っていたり、プープーと鳴いていたりもしましたが、水を飲むとまたすっと眠りに落ちていく。
昼間も何回も様子を見に行き、夜寝る前にも息をしているか確認。
ミータマも夜はヒメちゃんの近くで寝てくれたり、介護している我々のそばに寄り添ってくれました。

他の雌鶏が弱ってきたときには、トサカの色が紫になったり、身体の温度が下がってきたり、目に元気がなくなったり、ひたすらうずくまっていたり、腸の働きが悪くなって便の具合が悪くなったり、胃が膨らんだり、そして食べなくなって数日で他界することが殆どでした。

ヒメちゃんの場合は足は冷たく身体も低温になり、撫でると身体に居た沢山の小さな虫が体温が高い人間の方へ移動してきました。トサカは白っぽい薄ピンク。だけど力強さがあり、便の具合もよし、うずくまるより立ったまま
ひたすら寝ている。全く予測不可能でした。

けれど、その日の朝、ヒメちゃんは水を飲みませんでした。
こちらも今日が山場かもしれないなと覚悟しました。
もう意識はほどんどなく、息を感じないほど細く、身体の力も出ないはずなのに「自分で立つ」という気力だけ。だんだん沈んでいく身体も、そばで話す我々の声や寄り添うミータマの体温でまたじわじわと立ち上がっていく。
信じられないくらいの静かな気迫に言葉が出てきませんでした。


お別れを伝えに来たミータマ


嘴と羽根が地面についても立っているヒメちゃん

ミータマの行動を見て、
旦那さんがヒメちゃんを籠に横たわらせ足を綺麗に拭いてあげました。
するとやっとホッとしたように身体の力が抜けていきました。
倒れた状態でも、よく見るとお腹が動いているので息をしていて、
ヒメちゃんと声をかけると僅かに顔を頷いて何回も応えてくれたのです。

やっと力の抜けたヒメちゃん。まだ生きています。

横になった状態で声をかける度に何度か頷いてくれていたヒメちゃんでしたが、15時頃かけた声には反応がありませんでした。身体をよくよく見てもたぶん息をしてないかも?さっきより顔色が悪いかも?と判断つかないくらいの状態だったのですが、とても驚いたことがありました。
見た目は変わらないのに、重さが違うのです。
21グラムという映画がありましたが、人が死んだときに減ると言われている重さ、魂の重さと言われています。鶏だと0.08gくらいでしょうか、感じ取れるか取れないかの、僅かなその重さの違いでヒメちゃんの魂が旅立ったことがわかったのです。
少し心の整理をしてから、夕方になる前に堆肥小屋にヒメちゃんを埋葬しました。時間をかけてその肉体は土に戻り、再び命の中に送り込まれる。
翌日もヒメちゃんの居た場所に太陽が当たるとヒメちゃんの良い匂いがして驚きました。その存在というものは肉体だけでなく、細かな塵の中にも広がっていくものなのでしょう。


威厳と素朴さと微笑みのある穏やかなとき。
恐怖や執着も無い、安寧の世界が広がっていました。
ヒメちゃんの死とは何かを問うと、それはヒメちゃんらしく生きたこと。身体は心臓が動いているかいないかだけであり、0.08gの魂のエッセンスは何も変わらない。肉体は次の命の糧になってゆき、魂の持つ周波数は私達の中に刻まれている。

これはヒメちゃんの話だけでなく、命あるもの全てにおいて
【本来の魂のままで生きる】ことを見せてもらった気がしました。
教育の中で教えられてきたこととは違う死の在り方。
全ての終わりのように教えられてきた死の概念が恐怖や別離に向かうのではなく、それは毎日の繰り返しと変わらない、むしろとても穏やかなものへと向かうのだと深く理解したとき、
いまここの全てのものの美しさと充足と奇跡に気づく。

インドに行った時に参加させてもらったプロジェクトの
noco(ノコ)という言葉はジャングルと共生するインド先住民族ワルリ族の言葉。意味は「もう十分です、いりません」の精神をリスペクトしたものでした。
これは日本にも昔からある精神ではないかと湘南から里山に越してきて7年目。「我ただ足るを知る」パーマカルチャーを目指し進み、鶏と暮らすことによってやっと自分の中にしっかり理解したと感じたことでした。

まだまだ一歩目。

考えすぎるより感覚を開いて里山パーマカルチャーに没頭したいと思います!あとは、リミットある愛すべき素晴らしき命たちを毎日毎秒愛でること💖

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