見出し画像

ソシュールと西洋言語学と日本語

仰々しいタイトルになってしまいました。

久しぶりにソシュールの解説を読んでいたところ、本論と関係のないところで躓いてしまいました。ソシュールは、言語記号をシニフィエ(概念)とシニフィアン(聴覚映像)に分けているのですが、「聴覚映像」というところ、引っかかりませんか?

なぜ文字は含まれないのか?

渡邊十絲子著『今を生きるための現代詩(講談社現代新書)』という本に、なるほどと思える記述がありました。これも、この本の本論とは多少ずれた参照のしかたになるのですが、面白かったのでご紹介します。

この本に、詩の表現を考える際の、日本語の独自性を考察する箇所があります。

日本語では、一つの語を書くときに、それを表記する文字を何種類もの中からえらびとるという問題が存在します。例えば「ばら」と「バラ」と「薔薇」はすべて同じB-A-R-Aという響きをもちながらも、あたえる印象は全く異なるという具合です(もちろん、同音異義語というわけではなく、同じ植物の薔薇を表していたとしてもです)。したがって、日本語でものを書く人は、どのような表記で書くかという問題と常に向き合っており、それは日本語の大きな特殊性だと言っています(ちなみにこの話は、「詩とは音読されるべきだ」という常識を覆す話でもあって、その論点でも非常に面白い考察だと思います)。

また、そもそも、日本語は音韻組織が簡単であるため同音異義語が非常に多くなるという側面もあります。ただでさえ同音異義語が多い上に、上述のように、表記の問題もあって、一つの音声に対する表記が非常に多くなるという結果になります。

一方、日本語以外の言語においては、基本的に表記のブレはありません。また、同音異義語がない訳ではありませんが、英語の母音の数や中国語の四声の数からもわかる通り、音声の種類が多く、日本語に比べれば音声と表記が一対一に近い対応をしています。

これらのことから、西洋言語学では「言語とは音声のことであり、文字はそのかげにすぎない」と考えられているようです。

昔、よく文法面(例えば動詞が最後にくるなど)を取り上げて「日本語は特殊な言語だ」という風潮がありましたが、実際、そのような意味で日本語と似た言語は比較的多く見られます。一方で、上述のような意味では、日本語は、本当に特殊な言語と言える可能性があり、独自の言語学がもっと発達してもいいような気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?