「不文律」(昭和文学風に)2


 妙子は、年中唇の端に柔和な笑みを浮かべていた。作り過ぎの感があって大抵人がこのような表情をするとあまり良い感じは与えないものだが、彼女の場合それが一種の愛嬌になっていた。ごく愛想がよく、商売に向いた人だった。ところが二郎の兄弟の間では、妙子の評判はあまり良くなかった。
 実家の漬物屋は、二郎が婿に入ってから十年もしないうちに需要が減り、近くに大きなよろず屋が出たあおりも食って店をたたんだ。妙子の両親は、店を壊した跡地にそれまでに貯め込んだ小金でアパートを建て、そのうちの一室に住み、別の一室を娘夫婦に与えた。
 当然のことながらアパート経営だけでは余裕ある生活はできず、一家の生活が二郎の双肩にかかってきた。しかし持って生まれた性癖だけは変わりようもなく、何度となく職についても長続きしなかった。
 だらしない兄貴だという兄弟達の不満は、いつしか妙子への非難へとすり変わっていった。兄弟達はどういう訳か考え方が極端過ぎるきらいがあった。
「妙さんがちゃんと手綱を締めないから兄貴はいつまでもああなんだ」この程度ならまだよかった。時折設けられた宴で、男達に酒がまわり始めると、
「おい、豚みたいな顔しやがって、よくもしゃあしゃあと俺たちの前に顔を見せられるもんだ」
「養子とったからとてあまりでかい顔するもんじゃねえぞ」
 男たちは赤い顔をさせながら、面と向かって妙子に罵声を浴びせた。女兄弟たちはどうしていたかというと、たしなめる言葉一つかけるでもなく、さもその通りだといった顔つきで、時折まるでいじめられている子供を眺めて喜ぶような、そんな表情を浮かべるのであった。
 達雄の長男の明彦は、夕べから一睡もしていない充血した目をこすりながら、二階の自室の扉を開けた。父親の達雄が親戚の者に「例の話」をすることは聞かされていたが、まだ他の訪問客も残っており、親戚だけの席になっても「例の話」がいきなり始まることはないだろうと、わずかばかりの仮眠を貪るつもりだったのだ。
 部屋の扉を開けた明彦の視線の先に、一人の男の姿が飛び込んできた。自分の勉強机の上にだらんと両足を垂らし、椅子の背もたれに預けた肩をまるくして、その男はぴくりとも動かなかった。何処か疲れたようにも見えるその後ろ姿は、先ほどから姿の見えなかった二郎だった。
 前に廻ってみると、二郎は頭を垂れ、口をぽかんと開けて眠っていた。かよわい鼾が不規則に聞こえた。どういうこともなく、その姿を見た明彦は無理やり起こすことにためらいを感じた。が、このままにはしておけない。
 肩をたたくと、とろんとした目を明彦のほうへ向けてきた。はて、と云ったような不思議そうな表情をした。
「叔母さんが、下で探してますよ」
 二郎は部屋を見渡してから「あ、失敬失敬、どうも寝ちゃったらしいな。どうも苦手でね、人がざわついている所は。ちょっと休むつもりが・・・」
 部屋で寝たことを謝りながら、他人の部屋に勝手に入ったことには頓着しない叔父に、明彦は不自然さを感じた。
 うんしょ、と言いながら机の上から両足を下ろし、椅子から立ち上がった。出口の方へ二、三歩歩きかけて立ち止まり、左手にある本棚を見やった。明彦の専攻する文学系統の本が溢れていた。
「あきちゃん、いっしょうけんめい勉強するんだよ」
 二郎は唐突にそう言った。どうしてそんな言葉が二郎の口から出たのか明彦には分からなかった。
 二郎が出ていった後、机の上に広げたままの原稿用紙を明彦は何気なく見た。二郎の靴下についていた埃やら糸くずのようなものが原稿用紙の上に落ちていて、なんとも言えない嫌な匂いがした。

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