「不文律」(昭和文学風に)4
「俺が今この話をしているのは、何も金のことだけじゃないんだ。こう言うと何を言いやがると思われるかもしれんが。あんな弟でも、弟は弟、血を分けた兄弟であることに変わりない。これはもう事実だ。耐え難い足枷であるかもしれんが、ここにいる誰もが、大なり小なりそのことを引き摺っていかなけりゃならんと思う。こっちだけで抱えきれず、申し訳ないとは思うのだが」
「それは、そうだね。これから全て兄さんだけに負担させるわけにはいかないね。でもなあ、ここの家も土地も兄さんが受け継いだことだし、俺らにはそういうのは一切ないのだがなあ」
男兄弟の一人がそう言った。
四女の君江は相変わらず目を見張らせて黙っていた。
弟を今の病院へ入れた道子が、もうこんな話はさっさと終わらせたいという様子で早口でこう言った。
「いいじゃない、たかだか月一万円くらいでしょ。金で済むことなんだから、みんなで平等に払ったらいいのよ」そして、時計をみやり、そわそわし始めた。夫の転勤で今は福岡に住み、帰りの新幹線の時間を気にしているのである。
仏壇の線香は燃え尽きて、最後の一条の煙がほんやりと上がった。
外はいつの間にやら褐色の闇の気配を漂わせ始めていた。
どうやらこうやらまとまった話し合いの結果、全くの平等という訳にもいかないだろうから、三女と四女だけは七千円、その他は月に一万円の負担ということに決まった。もっとも、三女の君江は決まったことに納得せず、あくまでも兄の二郎が払うならという条件付きだった。
皆が帰った後、明彦はそソファにもたれて煙草をふかしながら、後片づけの終わったばかりの四角いテーブルを見やった。そのテーブルの周りには、まだ縁者たちの様々な想念の残骸がゆらゆらと漂っているような気がした。
「あのさあ、金なくなったから、送ってくれよ」
明彦は、病院から時々かかってくる電話を取り、幼い頃接した叔父の顔を思い出しながらそんな声を聞き、また、もうこんなところにいるのは嫌です、早く家に帰りたいです、という蚯蚓が這ったような文字の手紙を目にすることもあった。
そういうことの環境の中にいるせいかもしれないが、明彦は時々怖くなる時があった。叔父の精神の病がどこから来ているのかは分からないが、自分にもひょっとしたらそんな因子の一部が紛れ込んででもいはしないかと。その度に頭を振って嫌な黒い塊を振り払ってきた。父親の兄弟達はこういうことの煩わしさは分からないのだろう、と明彦は思った。
そして先ほどまでテーブルの周りに座っていた叔父や叔母の苦虫を潰したような皆の表情を思い出しながら、やるせない憤懣を明彦は感じた。
今も幼少の頃よく遊んでもらった優しそうな叔父の顔が脳裏に浮かんだ。祖母が亡くなった今、その叔父の帰るところはもう何処にもないのである。たとえ奇跡が起きて精神の回復があったにせよ。
話し合いに参加しなかった二郎の所へは、達雄が話し合いの結果を手紙で知らせた。折り返し妙子から、ご承知かと思うが夫があんな状態でろくな給料ももらえず、自分も内職などしているが、かろうじて食べている状態なので、そのうち多少でも余裕が出来たなら何とかお役に立ちたい、という返事が来た。
四女の君江は、夫のいる席で弟の話をされたことを愚痴る手紙を寄越した。兄の二郎が払わなければ自分も払わないと再度手紙にも記してあったが、幸い連れ合いが物わかりの良い人だったようで、夫婦間に亀裂が入るようなこともなく、むしろ道理を説かれたのか、四か月程経ってから送金して来た。皆に話を振った達雄はその成り行きに胸をなでおろした。
二年以上経った。一周忌にも三回忌にも顔を見せなかった二郎の所から妙子の筆跡で書留が送られて来た。手紙に添えた半紙の中にしわになった札が三枚挟まれていた。
今も、それは続いている。
<了>
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