「AIの行く末(すえ)」


 先日、テレビのワイドショーを見ていたら、崎陽軒のシウマイ弁当が映っていて、それぞれのおかずに番号がふってあった。何かなと思ったら、こういう順番で食べたら一番おいしく食べられるとAIが判断した結果だった。AI信奉者なら、本当にこの順番通りに食べるのだろうかと想像し、思わず笑ってしまった。

 少し前までは、チェスの世界ではもう世界王者を圧倒していたが、取った駒を使うことのできる将棋はその先の指し手が膨大なものになり、AIがプロ棋士に拮抗するまでにはまだ時間がかかると思われていたが、2012年に行なわれた電王戦では、もう既にプロ棋士側がコンピュータに対して1勝3敗1引き分けで、見事に敗れた。その次の戦いでも1勝4敗で、(この時の1勝は贔屓にしている豊島将之)、もうこれは完全にAIが人の頭脳を超えたということで、誰もそのことに異をとなえる者はいなかった。おもしろいのは、その次で、何と4勝2敗で人間がAIを圧倒したのである。しかしこれは、人間の頭脳がAIを超えた、ということではなく、AIの中の情報にはない俗に言う「ハメ手」(騙し討ちのようなもの)を棋士側が駆使した結果という側面もあり、俗に言うお互いに「力技」を発揮しての勝負、ではなかったようだ。
 今はネットでもプロ棋士の対戦を簡単に見ることができ、画面の上方にはどちらが有利かの評価値が出るようになっている。ヘボアマチュアのこちらとしたら有難いシステムでそれがなければその時の戦況を判断できない。面白いのは最終盤で、さっきまで右側の棋士が95パーセント有利だったものが、一手でその立場が見事にひっくり返ることがあるのだ。
 前に羽生善治が、何かのインタビューでAIについて語っていた。「今現在のAIは最強なんでしょうけれど、面白いのは1年後にはそのAIを超える新たな最強が出ることです。この一手が正解とした手が、1年後にはひっくり返っているのです」この話を咀嚼すれば、本当に100パーセント正しい一手というのはあるのだろうか、といことになる。
 画面の上の評価値の下に、今AIが予測して読んでいる手数の数字が表示されるのだが、その数字がどんどん大きくなる。1億、3億、5億。。。一体どこまでいったら、先ほどの絶対的に正しい一手に辿り着くのだろう。ひょっとして、完全に正しい手、というのは幻想に過ぎないのだろうか。
 こうして便利になった半面のマイナスについてもついつい考えてしまう。何年か前のタイトル戦で、羽生善治と豊島将之が対戦した時のこと。最終版、お互いに詰むや詰まざるやの局面を迎えていた。そして、評価値は90パーセント以上が羽生に振れていたにもかかわらず、その羽生が投了したのだ。少しして、これから感想戦を行なおうとする時に、周りにいた一人が、実はとそのことを伝えた。一瞬キョトンとした羽生は次に、そうなんですか、ともう一度投了の場面を反芻しているようだった。タイトル99期獲得の天才棋士に対して、こうしたら勝っていたんですと告げた人の内心はどんなだったのだろう。ほんのわずかながらでも、優越感というものはなかったのだろうか。羽生は知らないがこちらは知っている、とでもいったような。羽生の到達した境地はある意味聖域である。その聖域がでわずかであるにせよ汚されたような気がしたのだ。

 ずっと前に友人の結婚式に出席した。彼はその頃流行り始めた「コンピュータが取り持つ縁」で結婚した。最初の仲人の挨拶で二人の馴れ初めをどう説明するか興味を持って聞いた。正直に、お互いにコンピュータお見合いに登録して、と言うだろうか。結局のところ、やはりそれではバツが悪いのだろう。彼女が落とした財布を彼が交番へ届け、そこから付き合いが始まったと、仲人は説明したのだった。もう少しマシな作り話をすればいいのにと内心思ったが、大事なのはこれからなので二人の幸せを祈った。祈ったが、なんとたった1年後に二人は破局した。
 
 まさかAIの言う通りの順番でシウマイ弁当を食べる人はいないだろうが、将棋AIの例を見ても分かる通り、これほどAIの能力、精度が高まってくると、中には今の自分の刹那の恋愛感情よりは冷静なAI判断が正しいとしてAIの勧める相手を選ぶ人が増えるかもしれない。
 
 そして、究極は脳だろう。AIブレインなるものが登場し、その人の生きていた全記憶を全て0と1に置き換えてデジカル化し、人工脳に移し替えるなんてことが可能になるかもしれない。肉体は滅んでも、人工脳としてその人が生き続けられる可能性というものを否定できるだろうか。そして、それを希望する人がいないと断言できるだろうか。ずっと前にこんな映画を観た。体はなく、首から上だけの女性がある水溶液の中に浮かんでいる。そして色々な管がそこから出ていて、別のところにある人工的な手につながっている。彼女は、首から上だけは生きているのだ。そして、人工的な手を動かすこともできるのだ。そのような現状に耐えられなくなった彼女が悲劇を迎えるというラストで映画は終わった。
 もしAIブレインなるものが現実となったら、それを望む人がいるだろうか。言ってみれば永遠の命と同じである。肉体はないにせよ。

 この瞬間を貴重なものとして抱きしめたくなるのは、終わり、つまり死があるからだ。いつかこれは終わるのだという現実があるから、風の心地よさを感じ、光の快適さを感じ、明日枯れるかもしれない花を愛で、家族の団欒を楽しみ、一杯の冷えたビールで喉を潤すのだ。もし人に死というものがなかったら、人の情の機微もなかった、とある生物学者が断言していたが、これも確かに頷ける話だ。

 こうしていろいろ頭の中で巡らせていると、AIがもっと進んだ世界では、人々が本当に幸せに暮らせているかどうか疑問符がついてしまう。かといって、一度決まったベクトルには逆戻りということはあり得ない。そこがどんな世界かわからないが、行くところまで行くしかないのだ。
 未来の人類に幸あれ、と願うしかない。そんなに先のことは、こちらにはとんと関係がない、かもしれないにせよ。


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