「バンコクからの手紙」
あれは何と言っただろう。地面に埋めてずっと後に自分が書いた手紙を取り出す。宛名は未来への自分へ。たぶんおおかたの人がこそばゆくなりながらそれを読むのだろう。
母親の遺品整理などを少しずつ始めた。亡くなった当初はそんな余裕などもちろんない。時の流れが、少しずつそういった余裕を与えてくれているのかもしれない。そんな時、それは残酷な反面、時にほどよい漢方薬になるのだな、などと思わず呟いている。
仏壇の周りを整理していた時、ごく普通の小さな小箱を開けて驚いた。中には、昔わたしが両親へ向けて書いた手紙が入っていたのだ。
赤と青に縁どられた「Air Mail」の印刷のある小さな封筒。ボールペンで記した中の便箋の紙質も悪く、もうぴらぴらな感じである。
思わず、青いボールペンで書かれたきれいでない筆跡の文面に目がいってしまう。
「久しぶりの二人の生活はどうですか?けんかなどしていませんか?」と聞いている。
「食料品ありがとうございます。でも、こちらにも日本の食べ物はありますから、あまり心配しないでください」とある。そして思い出した。たぶん、一番に口にするものの心配をしたのだろう。両親は、段ボール一杯に日本の食べ物を入れて送ってくれたのだった。だが、その荷の通知を受け取り、どこかへ取りに行き、ずいぶん高い手数料を払ってそれを受け取ったのだった。たぶんかなりの関税も含まれていたのだろう。海外にいると、日本では普通のことがそうではない。
「先週、日本語の講座が終わり、いい学生ばかりで、最後に谷村新司の 昴 をみんなで合唱しました」とある。その頃、この歌は向うでも歌われていたのだろうか。そして思い出した。カレッジの理事長が懇親会を開いてくれ、最後に彼が、その 昴 を歌ってくれたのだった。
活字中毒者としては日本語の新しい本が読めないのがマイナスでしたが、近くに日本語の書籍を扱っている古書店を見つけうれしかったです、などということも記してある。
こうして両親に手紙を書いたのは、たぶん心許せる人が近くにいない寂しさからであったからかもしれない。今はラインで簡単にやり取りができるが、当時はそんなものはない。電話で話すにしても、諸手続きを踏み、オペレーターを介し、それ相応の面倒なことが必要だった。
「昨日、こちらで初めて床屋へ行きました。日本とやり方が違うので戸惑い、終わった髪型もなんだか自分でないようでおかしくなってしまいました」そんなのんきなことも記してある。
両親は、このような手紙をどんなふうに読んだのだろうか。心配して、安心して、またそれでも大丈夫だろうかと異国にいる息子のことを気遣っていたのだろう。
たぶん母親は仏壇の前で無事を祈っていたのだろうか。仏壇に置いた小箱の中に手紙を入れ、その小箱に手をあてながら。
親の心子知らず、そんな文面の手紙を遠い昔の自分へ送ってやりたい。
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