ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌 #01

序   墓場の鬼太郎
 
 黒くぶあつい雨雲が、細い弧を描く下弦の月を覆い隠そうとしていた。ゴロゴロゴロ……誰もきく者のない遠雷が、真夜中の墓地に響きわたる。そう、墓地……なのだろう、ここは。
 立ち並ぶ墓石や卒塔婆(そとば)はどれもみな摩耗し、苔むし、ひび割れ、欠けており……長い年月にわたって人の手が入っていないことは歴然だ。菩提(ぼだい)を弔うべき寺も、もうとっくの昔に打ち捨てられ、もはや一人の僧もいないのだろう、無縁仏(むえんぼとけ)の群れを見守っているのは、墓標と同じくすっかりさびれ、荒れ果て、壊れかけた粗末な本堂――の跡――だけだった。
 
 少しずつ近づいてきた雷の音に呼応するように、どこかで犬の遠吠えがした。そのとき、荒廃しきった墓地の片隅で、なにかが、たしかに、がさりと動いたのだ。
 それは人だった。いや、というより、人型をした〝もの〟だった。その場に誰もいなかったのが幸いである。その〝もの〟からは激しい異臭が漂っていた。なかば腐りかけ、あちこちから肉がこそげ落ちた、その〝もの〟の全身には、顔から手足の先まで、どす黒く変色した包帯が幾重にも巻きつけられていた。
 死体、だ。
 見るも無残なその屍(しかばね)が、参拝する者もいない、この荒れ寺の墓地にうち捨てられていたのだ。
 動いたのは……この死体だった。びっしり巻かれた包帯の隙間(すきま)からわずかに覗(のぞ)いた顔面の――かつて、そこに目が存在していたと思われるあたり――の皮膚(ひふ)が突然、ぼこりと盛り上がり、脈打つようにうごめいたのである。
 死体の顔から〝なにか″がこぼれた。
 ぽっかり空いた眼窩(がんか)から糸を引くように、そのまま地面に落ちたそれは……一個の〝目玉〟だった。〝目玉〟は、まるで生まれた直後の仔馬(こうま)のように、落ちた地面の上でぴくぴくと痙攣(けいれん)する。そして、粘液まみれの、ぬらぬらと光る小さな体を伴って、〝目玉〟はそこに直立したのだ。
 もう一度いおう。この場に誰もいなくて本当に幸いだった。
「どうやら間に合ったようじゃな。……岩子(いわこ)、頼んだぞ」
 こぼれ落ちた〝目玉〟が今、言葉を発したのである!
 ぽつぽつと降り始めた冷たい雨にいざなわれたのか、すぐ近くで落雷があった。稲妻の凄まじい光が、〝目玉〟と、そして闇に覆われていた荒れ寺を、まばゆい黄色に浮かび上がらせた。
 
 無縁仏の群れの中に、一本の真新しい卒塔婆があった。乱暴に盛られた土饅頭(どまんじゅう)の上に無造作に立てられたそれは、どこかの廃材でも利用したと一目でわかる、いかにも急場しのぎの粗末なものだった。
 突然の稲光。一瞬だけ遅れて轟(とどろ)く落雷の音。それが合図だったように、卒塔婆の下の土饅頭がいきなり崩落(ほうらく)した。土の中から現れたものは……手、だった。紅葉のように小さな、小さな、赤ん坊の手だ。突き出された一対の手は、しばらく空をつかむような動きを見せたあと、その全身を地上に導きだした。
「おぎゃああっ!」
 響き続けていた雷鳴にも劣らぬ、鋭く、力強い悲鳴――いや!
 産声(うぶごえ)!
 信じられるだろうか。今、この荒れ果てた墓地の土中から、一人の赤ん坊が誕生したのである!
 やがて完全に外へ這い出た赤ん坊は、誰かを呼んでいるのだろうか、激しく泣き声をあげ続けた。おぎゃあ、おぎゃあ……と、虚空に向かって。
「おおっ、無事に生まれたか! でかしたぞ、岩子。よくぞ産み落としてくれた!」
 歓喜に満ちあふれたその声の主は――〝目玉〟だった。〝目玉〟は泥まみれの赤ん坊の傍(かたわ)らに立つと、その顔を愛おしげに見つめながら涙をにじませる。
「よいか? お前こそ我が種族の最後の生き残りなのだ。だから、死ぬんじゃない、絶対に死ぬんじゃないぞ。強く、そう、鬼のように強く生き抜くんじゃ!」
 そこまで言ったとき、〝目玉〟の虹彩(こうさい)が輝きを増した。「うん、そうじゃ!」
 赤ん坊の顔を正面から見すえながら、〝目玉〟が言葉を続ける。
「お前の名前は……鬼太郎、きたろうじゃ!」
 まだほとんどまわらない口ぶりで、赤ん坊がたどたどしく応じた。
「き……た……ろ……?」
「そう、鬼太郎じゃ! お前はわしの息子、鬼太郎じゃよ!」
 無縁仏の群れの中でただ二人きりの「命ある者たち」を祝福するかのように、稲妻がさらに輝きを増しながら、落雷という名の号砲を高らかに撃ち響かせていた。
 墓場(はかば)の鬼太郎が、今、誕生したのだ。


××××××××××××××××


壱   呪いのかごめ女
 
 「……でね、雨のそぼ降る夜に、どこかから『かごめ唄』がきこえてくるわけ! ……で、『かごめ女』に出会った人は、銀の鱗(うろこ)を貼りつけられてから……魂(たましい)を奪われて、死んじゃうんだって!」
「……で?」
 思い切り怪奇ムードを盛りあげていたつもりだったのだろう、友人の無愛想な反応を受けて、女子高生ががくりと大げさに肩を落とした。
「何よ~、友子、その気の抜けたリアクション」
「だって、エリの都市伝説シリーズってさ、いつもケータイサイトのパクリじゃん。ていうか、ちょっと古くない? それ、『かごめ女の呪い』でしょ?」
「ちぇ。知ってたか」
「知ってるよ、誰でも。こないだテレビでもちょっとやってたし。……その『かごめ女』と、最近増えてる若い女性の失踪(しつそう)事件が関係してるとかなんとか……。でもさ、怖がらせるつもりなら、もう少し新鮮味のある話じゃないとね。てか、せめて、もちょっと雰囲気出して喋(しやべ)ってくんない?」
「出してたつもりなんだけどな、雰囲気」
 さも心外と言いたげに頬をふくらませるエリ。「だめだ、こりゃ」と肩をすくめながら、友子が傍(かたわ)らに座っていたもう一人の友人に声をかける。
「どう思う、楓(かえで)?」
「……」
「……楓?」
「……え?」
 楓と呼ばれたその少女は一瞬、虚をつかれたように、どこかこわばった返事をした。
 ここは湘南地区の、とある女子高の校庭。その一角でジャージ姿の生徒たちがいくつかの集団に分かれ、腰をおろして雑談したり、手にした楽譜らしきものに目を落としたりしていた。エリ、友子、そして楓の三人組もその集団の中のひとつだった。
 楓の手にはぴかぴかに磨き上げられた、まだ新しいトランペットが握られている。三人ともこの学校のマーチングバンド部に所属する生徒だ。間近に迫った地区大会に向け、放課後の強化練習に臨んでいたのである。今は厳しい練習の合間の息抜き、短い休憩の時間だった。
「なによ、楓? まさか、あんた、怖かったわけ?」
 訝(いぶか)しげな目つきで訊(き)いた友子に、楓がかぶりを振って応じる。
「ううん、違うよ。違うけど……」
「違うけど、なあに?」
「ちょっと気になってさ。……ね、エリ、『かごめ女』は、どうして人間を襲うの?」
「どうして、って訊かれても、あたし、『かごめ女』じゃないし……。たぶん――」
「たぶん、なに?」
「……悪霊だからじゃね?」
 身もふたもないその回答に、友子がぷっと吹き出す。
「答えになってないじゃん、それ! ついでに訊くけどさ、なんで『銀の鱗』なの? 金の鱗じゃダメなわけ?」
「いや、だから、あたし、『かごめ女』じゃないからあ……」
 友子につられたのか、からかうような口調で楓が言葉を継ぐ。
「エリはさ、都市伝説を語るには、ちょっと勉強不足だよね」
「ツメが甘いんだよ、ツメが――」と、友子がエリに追い打ちをかけながら笑い声をあげたとき、三人の背後から鋭い声が投げかけられた。
「あんたたち、いつまで喋ってんの! 休憩終わり、練習始めるよ!」
 あわてて振り返る三人。そこに立っていたのは彼女たちよりひとまわり、いや、ふたまわりは体格のいい女子生徒だった。同じものを着ているはずなのに、包まれた肉体の圧力でぱんぱんに膨らんだそのジャージは、楓たちとはまるで違うデザインに見えた。
「ぶ、部長……」と、口に手を当てながら声をもらす友子。
「大会、近いんだよ。くだらないこと話してるひまがあったら、スコアのチェックでもしたら?」
 いったんそこで言葉を切った部長が、視線を楓に向けた。「特に、比良本(ひらもと)!」
「!」
 思わず下を向く楓。緊張のために背筋が自然に伸びた。楓はこの部長が大の苦手なのだ。体格同様に態度も大きい彼女は、お祖母ちゃん子としておっとり育てられてきた楓にとって、あまり出会った経験のないタイプの人間だ。部長と視線が合うだけで、条件反射のように身をすくませてしまう。そんな楓の態度が卑屈に見えてカンにさわるのか、部長もまた楓にはなにかときつく当たった。その口調もいきおい厳しいものになる。両者の関係はまさしく蛇(へび)と蛙(かえる)のそれに近いものがあった。
「あんたさ、譜面をなぞってるだけじゃん。そんな演奏じゃあ勝てないよ」
部長の叱責(しっせき)を受け、「……すみません」と、ますますうつむく楓。それを見て、余計にいらついたように、部長がさらに続けた。
「前からいおうと思ってたんだけど、性格ってさ、音に出るんだよね……。本番で足を引っ張ったら許さないからね!」
 そこまでいうと、部長はどすどすと大股で引きあげていった。「ほら! 練習再開!」と他の部員たちに号令をかけながら……。
「……」
 無言で下を向いたままの楓を元気づけるように、ことさら明るく友子が声をかける。
「なんだよ、楓! 気にすんなー」
「そうそう、ほら、部長、こないだ、ふられたばっかなんだってさ」
 どこで仕入れてきたのか、エリがそう続けた。
「うそ! また?」
 信じられない事実をきいた……とでもいいたげに、友子が目を見開く。
「そう、まただよ、また。今度はね、例の男子校のサッカー部だってさ。手作りのクッキー持ってったらしい。……ったく、ホント、こりないよね、あの人も」
「で、どうだったの?」と友子。
「決まってんじゃん!」と手を振るエリ。「だからさ、楓。今のも、たぶん、やつあたり……」
「……だってさ、楓。だから、気にするだけ損だよ」
「う、うん、そうだね……」
 二人の軽口をきかされてもまだ気の晴れない様子の楓が、それでもなんとか言葉を返した。友子が楓の腕を引っ張りながら、元気よく立ちあがる。
「私はさ、好きだよ、楓のトランペット。なんていうか……そう、楓にしか出せない音だと思うもん。だから、ほら、元気出せ!」
「……わかった。ありがと」
 友達の温かい励ましを受けて、楓の頬にようやく明るさが戻った。
 
※※※※※
 
 部長による楓へのあてつけ……というわけではないのだろうが、その日の練習はいつも以上に厳しく、長かった。部長の口から「終了」の言葉が発せられたとき、夕陽はもうとっくに沈み、ほとんど夜になっていた。もしもこの日の天気予報が雨ではなく、空に浮かぶぶあつい黒雲がその予報の正しさを裏づけていなかったとしたら、まだ練習が続いていたかもしれない。
 楓たち一年生部員が後片づけと身じたくを終えて、ようやく家路についたときには、すでにぽつりぽつりと小雨が降り始めていた。
 
 すれ違う者もない、ひとけのない寂しい路地を、真っ赤な傘が急ぎ足で進んでいく。
 楓である。
 ふと足をとめた楓が、傘越しに夜空をあおぎ見た。雨足を確かめるように手の平を上に向けたあと、誰にいうでもなく「やんだみたい」と、つぶやく。
 真っ赤な傘を閉じてから、また歩きだす楓。しばらくすると、その耳に、きき慣れない声が響いてきた。
「…………」
 何をいっているのかききとれないほど、小さな、小さな声……。だが、たしかにそれは声だった。それも女の声に間違いない。楓は再び立ちどまり、その声に耳をすました。
「!?」
 歌、だった。
 
かごめ かごめ
     かごのなかの とりは
          いついつ でやる
 
 かごめ唄……?
 雨の夜……それに……「かごめ唄」……嘘っ!
 これって……まさか……まさか……「かごめ女」……!?
 楓の顔から、さっと血の気が引いた。
 慌てて首を振り、きこえてくる「かごめ唄」の旋律を振り払おうとする楓。だが、その試みも虚しく、歌声はますます鮮明になりながら、楓の耳の奥深くまで届いてきた。
 
よあけのばんに
     つるとかめが すべった
          うしろのしょうめん だあれ――
 
 今の楓にできるのは、ありったけの大声を絞りだして、「かごめ唄」の歌声をかき消すことだけだった。
「だ、誰!? 誰かいるんですか!」
 前、うしろ、そして右、左……辺りを見回す楓。誰もいない。
「警察、呼びますよ!」
 いかにも虚勢(きょせい)を張った感じの自分の声だけが、人っ子ひとりいない夜の空に虚しく響きわたる。
 唐突に、歌声が、やんだ。
 錯覚(さつかく)……だったのだろうか。エリの話が記憶の片隅に残っていて、そのせいで、あんな幻聴(げんちよう)をきいただけかも……。
 もっとも合理的な結論のはずだった。だが、願望にも似た楓のそんな憶測は、次の瞬間、無残に打ち砕かれることになる。「かごめ唄」を歌っていたのとまったく同じ声が、今度は明らかに、確実に、楓に向けて語りかけてきたのだ。
「娘……」
 その声は楓の背後からきこえた。歌声のときより、はるかに近い。距離にして、ほんの数メートルも離れていないように感じられる。
 楓は急いで歩き去ろうとした。ところが、かんじんの足がぴくりとも動かない。まるで金縛(かなしば)りにあったように、靴底がアスファルトの道路から一ミリたりとも浮き上がってくれないのだ。誰かに助けを求めようか……口を開こうとする楓。だが、動いてくれないのは足だけではなかった。唇も、舌も、喉も、楓の意思に背くように微動だにしない。ただ、ひゅうひゅうという頼りなげな音だけが、上下の歯の隙間(すきま)から細く、細く漏れてきた。
 立ちすくむというのは、まさにこんな状況をいうのだろう……この非常時に、なぜか楓はそんなどうでもいいことを考えていた。現実逃避……なのかもしれない。今にもパニックに陥(おちい)りそうな神経を守ろうとして、直面する事態とまったく関係のないことを思考せよと、脳が自衛のためにそう命じているのだろうか。
 そのくらい――恐ろしかったのだ。
 声がますます近づいてきた。そして楓は、みずからの背中越しに告げられる。
「お前の魂……もらいに参る……」
 あまりにも度を超えた恐怖とは、あらゆる呪縛(じゆばく)から心身を解き放つものなのかもしれない。声も出せず、身じろぎひとつさえできなかった楓が、今の今まで自身を縛(いまし)めていた鎖を引きちぎった。
「誰なんですか!」
 振り返った楓の瞳に、ひとりの女が映り込んだ。
 黒く、深く、濃い影をまとった白装束……。ざんばらに乱れた長い黒髪によって、ほとんど覆い隠されている青白い顔……。
 女……だった。
 すだれのようになった髪の毛の隙間(すきま)から、怨みの炎をともした真っ赤な目が今、真正面から楓を見つめている。射抜くような鋭い視線で。
 女の体が、楓に覆いかぶさってきた。
「きゃああああっ!!」
 楓の悲鳴――そこに、まるで輪唱(りんしよう)のように重なってくる、女の不吉な笑い声。
 ようやく自由を取り戻した両足を必死に操りながら、楓は駆けだした。
 
 走った。ひたすら走り続けた。文字通り、命がけの疾走だった。全力疾走のままに十字路を左に折れた瞬間、何者かに衝突した楓の体は、後方に大きく放りだされた。
「!」
 しりもちをついた楓は、起きあがることも忘れて周囲をきょろきょろ見回した。右手に墓地が見える。その光景が、まるで今のできごととの不吉な符合(ふごう)のように感じられ、楓は視線を前に戻した。そして、このとき初めて見たのだ。自分の疾走(しつそう)をとめた何者かの姿を……。
 楓の頭上からこちらを心配そうに見つめていたのは――まるでボロ雑巾(ぞうきん)のような人物だった。視界に入れただけで臭気(しゆうき)が漂ってきそうな色合いの……服……とはとても呼びがたい、不潔きわまりない布切れを全身にまとい、水虫の巣のような素足で大地に立っていたその男が、外見に似合わぬきどりまくった口調で楓に声をかけてくる。
「大丈夫ですか、お嬢さん? おケガは?」
 差し出された手を思わず握ってしまってから、楓は思いきり後悔した。なんと表現すればよいのだろうか。衣服と同じく何年もまともに洗っていないのだろう、堆積(たいせき)した皮脂によってぎとぎとに湿りきった感触……。ふだんなら絶対に触れたいとは思わない手だった。それを楓はうっかり握りしめてしまったのである。さきほど感じた恐怖とはまた違った類の恐ろしさ、いや、おぞましさが、楓の背中に冷たい水をしたたらせた。
 握った手の感触が、このときは楓に幸いした。あまりの不快さに、脳がさっきの体験を一瞬だけ忘れてくれたのである。不快な手に引っ張られるようにして立ち上がった楓は、急いで手を離しながら、つとめて冷静な口調でいった。
「すみませんでした……」
 いいながら、目の前の人物を値踏みするように見つめる。人間の卑しさや浅ましさを集めて煮つめたら、あるいはこんな目つきになるのかもしれない。常に儲(もう)け話を探して歩いてるような、そんな目をしていた。同じ肉食獣でもライオンやオオカミではない。彼らの残した屍肉(しにく)にかぶりつき、そのおこぼれをちょうだいするハイエナや、またはもっと下等な……そう、ゴミ捨て場の残飯に群がるドブネズミ……。その男はごていねいにも、ネズミそっくりのヒゲまでピンとはやしているではないか! ここまで下品を絵に描いたような人物と、楓はそれまでただの一度たりとも出会ったことがなかった。
 自分を見つめる少女の目の中に、不審と警戒と、それに嫌悪の色を見てとったのか、男が慌てたように――そして言い訳がましく――自己紹介をはじめた。
「私、怪しい者ではございません」
 どこがだ。
 声に出さない楓の思いなど知らずに、男が続ける。
「辺りをパトロールしておりましたら、絹を引き裂くような女性の悲鳴がきこえましてね。で、こうして駆けつけてきた次第で……」
「……パトロール?」
「ええ、そうなんです」といいながら、まとった布切れの懐(ふところ)をまさぐる男。埃(ほこり)に混じって、鼻をつくような臭気が立ち昇ってきた。楓が反射的に顔をしかめる。
「ほら、妖怪ポストにも、こ~んなにたくさんの手紙が届いていましてね。そこで、この私が調査に乗りだしたと、ま、そういうわけでして」
 そこまでいってから、男がおもむろに名刺を突きだしてきた。
「申し遅れました。私、怪奇現象研究所所長で『ビビビのねずみ男』と申します」
 ……ねずみ男……?
 あまりにも外見と似合い過ぎる、その名前に呆れかえった楓は、渡されるままに名刺を受け取ってしまった。その様子を満足げに見やりながら、ねずみ男がようやく思い出したように口を開いた。
「あ、それからですね、ほら、向こうでぼさーっと立ってるのが――」
 墓地のほうに顔を向け、大声で呼びかけるねずみ男。
「おーい! こら、助手! お嬢さんに自己紹介しろ、自己紹介!」
 つられて墓地に目をやる楓。そこにもうひとり、別の人物が立っていた。
 薄暗い街灯に照らされたその人物は……まだ若い。楓よりも少し年上といったところか。うっとうしい長髪が顔の左半分を覆い、服装は――ずいぶんと時代がかっている……というか、少なくとも楓があまり目にしたことのないスタイルだった。濃紺の学生服に同じ色の半ズボンを合わせ、足には古びた感じの下駄を履いている。そしてなにより印象的だったのは、学生服の上にまとった……ベストというか、チョッキというか……そう、たしかチャンチャンコとかいう……半纏(はんてん)のような袖無しの上着だ。いったい素材はなんなのか、妙にけばだった生地でつくられた、黒と黄色の縞模様のチャンチャンコを、その青年は身にまとっていたのだ。
 ねずみ男に「助手」と呼ばれた青年は、面倒くさそうな声で返事をした。
「助手? 俺のことかよ」
 カランコロン……。
 下駄の音を夜空に響かせながら、青年がこちらに近づいてくる。
「ゲゲゲの鬼太郎ってもんです。どうも」
 愛想のかけらもない、ぶっきらぼうな挨拶だった。目の前に立った二人の人物――この世の不潔を代表したようなねずみ男と、不愛想なチャンチャンコ青年の顔とを、楓は、改めて観察してみた。そして……結論が出た。
 あまり関わらないほうがいい。
「あ、あの、私、急ぐんで……。失礼します!」
 そういい終わるやいなや、きびすを返す楓。
「あ、ちょ、ちょっとお嬢さん――」というねずみ男の声を無視して、楓はそのまま走り去っていった。
 
 翌朝。始業前――
 カラフルなユニフォームに身を包んだマーチングバンド部員たちが、広い校庭の一角で輪になり、行進しながら演奏している。迫りつつある大会を想定した、本番さながらの予行練習だ。
 楓もまた、昨日のジャージ姿とはうってかわった本番用のコスチュームを着こんで、演奏に参加していた。ときおり向けられる部長の刺すような視線から目をそらしながら、トランペットを携え、自分の担当パートを懸命に吹き続ける。
 トランペットを吹いている間だけは、あの白装束の女のことも、そのあとに出会った二人組の不審人物――怪奇現象研究所の所長、ねずみ男と、その助手、たしか、きたろう、とかいったっけ――のことも、すべて忘れることができる。今の楓にとって、練習時間だけが心安らぐ時間だった。なにかと口うるさい部長のことなど、昨夜のできごとに比べればなんでもない。
 と、そのとき――
 楓は左手に強い違和感を覚えた。痛み……だ。熱い火箸を押しつけられたような、鋭く、激しい痛み……。思わずとり落としそうになったトランペットを慌てて握り直しながら、楓は今、痛みを感じた左手に目をやった。
「!?」
 ユニフォームの袖口から覗いた左手の甲に、数枚の銀色の鱗が貼りついて、朝の陽射しを反射しながら、ぎらぎらと鈍い輝きを放っているのではないか!
       ××××××××
「……銀色の鱗を貼りつけられてから……魂を奪われて死んじゃうんだって!」
       ××××××××
 楓の耳の中で、昨夜の不吉な歌声が蘇ってきた。
 
   かごめ かごめ
        かごのなかの とりは
             いついつ でやる
 
「……うそ……嘘、でしょう……そんな……!」
 白く、まばゆいはずの朝陽が、楓の目にはこのとき、くすんだ灰色に見えた。
 
 この日の放課後は、月に一度の部長会議のために、全クラブ活動が休止とされていた。各クラブの部長と顧問の教師が集まって、活動報告などを行なう恒例の行事だ。楓たちの練習も当然、お休みである。
 もうすべての生徒が帰宅の途についたのか、無人となった教室にただ独り、楓だけがぽつんと席に座っていた。大きな窓から射し込む夕陽が、教室全体と、そして楓の頬を真っ赤に染めあげている。
 楓の視線の先には、手にした携帯電話の画面があった。
 そこに映し出されていたのは、一日に何十万アクセスも記録するという超人気ホラーサイトのページだ。『特選! 恐怖の都市伝説』と題されたこのサイトは、エリをはじめとして楓の周りにも愛好者が少なくない。
 楓はトップページから、あるリンク先を選んだ。「接続中」を示すメッセージのあと、続いて表示されたのは、サイトの臨時特別ページ――「検証/かごめ女の呪いとは?」……。
 喰い入るような表情になって、画面のテキストを読みふける楓。そこには(少々怪しげな)目撃談や体験談に混じって、「かごめ女」に関する情報が箇条書きとしてまとめられていた。
 いわく――
「かごめ女は小雨の降る晩に現れる」
「若い女性が独り歩きをしていると、どこかから『かごめ唄』がきこえてくる」
「『かごめ女』は獲物を定めると、その目印として銀色の鱗を貼りつける」
「この呪いから逃げることは絶対にできない。『かごめ女』に目をつけられた者は肉体を喰らい尽くされ、その魂を冥界(めいかい)へ持ち去られてしまう」
 ……
 …………
 ……………………!!
 楓が顔をあげた。その額にはあぶら汗がにじみ出て、顔からは血の気が失せていた。ちらと視線を下にやる楓。左手には真っ白い包帯が巻かれている。けれども楓には、包帯で隠され、今は絶対に見えるはずのない〝アレ〟がはっきりと見えた。
 銀色の……鱗……これって、「かごめ女」の……目印なの……!?
「楓……?」
 自分を呼ぶ声がした。携帯電話を慌てて閉じながら、声の主のほうを見やる楓。立っていたのは友子だった。
「なに? まだ残ってたの? ……へへ、忘れ物しちゃってさ」
 そういいながら、友子が近づいてきた。
「う、うん、ちょっと……」と、言い訳にもならない言葉を、言い訳じみたいい方で返しながら、楓が自分のカバンを引き寄せ、帰り仕度を始める。
 その背中に「ねえ、楓……」という、友子の心配そうな声。
「な、なあに?」
「なんかあった?」
「え? う、ううん! なんにもないよ。なによ、友子、急にそんなこと。変なの!」
 疑わしい目で楓を見つめる友子。
 その視線から顔をそらしながら、楓も「疑われるよね、そりゃ」と感じていた。
「でも、変だよ、楓。朝練のあとからさ、なんか急に――」
「ごめん! 私、急ぐんだった! じゃあね、また明日!」
 友子の言葉を振り切るようにして、楓は教室を飛びだしていった。
 
 昨夜と同じ道を、昨日と同じく独りで、楓は歩いていた。
 今日はまだ明るい。だが、同じ道を歩いていればどうしても思い出してしまう。今でも嘘のように思える、いや、思いたい、あの忌まわしいできごとを……。そう、あれは実際に起きたことなのだ。それをいやでも証明しているのが……自分の左手にきつく巻かれた白い包帯である。包帯に隠された銀色の鱗である。
 暗澹(あんたん)とした思いを抱えながら歩いていた楓が、やがて自宅の近くまで来たとき、きき憶えのある声がした。「おや、お嬢さん、おかえりなさい」
 はっと顔をあげる楓。そこに立っていたのは、あの、ビビビのねずみ男だった。
「あ、あなたは……!」
「いや~、お待ちしてましたよ」
 慇懃無礼な調子でいいながら、楓の前に立ちふさがるねずみ男。楓の機先を制するように、声をひそめてねずみ男が続けた。
「……私どもの助けが、必要なんじゃないかな~と、そう思いましてね。む~ふふふ」
「助け? なんのことです?」
 顔をそむける楓にかまわず、ねずみ男がいった。
「ま~たまた、とぼけちゃって。正直にいっちゃいなさい、ほれ、ほれ」
「ていうか、なんで私の家を――」といいかけた楓の目の前に、ねずみ男が何かを差しだした。
「これ、ゆうべ落としましたよね。はい、お返しします」
 楓の学生証だった。
「どうもすみませんでした!」と無愛想にいい、学生証をひったくる楓。そのまま自宅へ向かおうとしたとき――
「う・ろ・こ……」
「!!」
 楓の足が止まったのを見計らって、ねずみ男が「むふふふ」と下卑た笑い声をもらした。ゆっくりと振り返る楓。「……なんで、そのことを?」
「釣れた!」といわんばかりに満面の笑みを浮かべながら、ねずみ男がまくしたてる。
「だから昨日も申しあげたでしょう? 私、怪奇現象研究所の所長ですよ~。だから、なんでもお見通しなんです。……ご安心なさい。この私に任せれば、どんなお悩みでもたちどころに、しかも! 格安の料金で解決して差し上げますから!」
「…………」
 
       ※※※※※
 
 それがこの日本のどこに存在しているのか――地図上でたしかな位置を示すことのできる者はいない。そう、少なくとも示すことのできる〝人間〟は、いない。
 人の手による開発もまだ及ばない、深い深い森の、さらに奥深い場所に、それはあった。
 鳥たちのさえずり。
 虫たちの鳴く声。
 木々や草花が風にそよぐ音。
 手つかずの自然に囲まれた、天然の楽園――それこそが、ゲゲゲの森である。
 そのゲゲゲの森のさらに奥まった一角に、湖とみまがうばかりの大きな沼が、その広大な水面に沈みゆく夕陽を反射させて、きらきらとまばゆく輝いている。沼のほとりに立つ樹齢何千年とも知れぬ巨木の上に、そこに設えられた巨大な巣箱のような鬼太郎の家があった。
 
 むきだしの木材を、太く丈夫な木の蔓(つる)でくくりつけただけの、質素で簡易なつくりの家ではあるが、その内部には、なかなかに快適な空間がひろがっていた。
 八畳ほどある板の間はいくつかの段差で仕切られており、生活の場としては十二分に機能していることがうかがえる。やれ庭付き一戸建てだの、やれキッチン別の三LDKだの……と、余分な虚飾(きょしょく)を剥(は)いでいけば、「立って半畳寝て一畳」といわれるように、ひと家族が住む家にたいした広さは必要ないのだ。
 一枚板でこしらえた大きなテーブルと、小ぶりの整理棚の他には、家具などひとつも置かれていない板の間の片隅に、この家の長男――ゲゲゲの鬼太郎が座っていた。その前にずらりと並べられているのは……彼の義眼コレクションである。そのうちひとつをとりあげた鬼太郎は、鏡を覗き込みながら長い髪をかきあげると、閉じられていた左のまぶたを指でこじ開けた。そこは空洞だった。手にした義眼を、その空洞にねじこむ鬼太郎。
 そう、鬼太郎には左の目がないのだ。
 鬼太郎の左目は、生まれつきなかったとも、誕生直後に心ない人間により負傷させられて失ったともいわれている。あいにくその誕生の瞬間を見ていた者はおらず、また、生まれたての赤ん坊だった鬼太郎自身に当時の記憶があるわけもないため、本当のところはわからない。
 その理由はさだかでなくとも、とにかく鬼太郎は物心つく前からずうっと、左目のない生活を送ってきた。だから、とうの昔にその境遇には慣れっこであり、今さら不自由さや違和感を覚えることもない。にも拘(かかわ)わらず、どうして義眼を使っているのかというと、それはいってみれば一種の〝公共マナー〟のようなものだった。
 日頃は一般社会と隔絶したこのゲゲゲの森で過ごしている鬼太郎だが、ときには街に出て人間と接することもある。いつ頃からか鬼太郎を「妖怪退治の専門家」として扱う風潮が生まれ、それが世間にひろく知れわたってしまってからは、その機会も増える一方である。
 人間たちと接する際、彼ら――特に幼い子供など――を相手に、なにかの拍子で〝片目〟を晒してしまったりすると、それだけで怖がらせたり、あるいは、変に気を遣われたり……と、あまり居心地のいいことにならない。鬼太郎はそれを体験的に学んできた。義眼を使用するようになったのは、その学習の結果ゆえなのだ。
 今では義眼のコレクションも増え、瞳の色や虹彩のサイズの微妙な違いを楽しむなど、ちょっとしたファッション感覚で使い分けたりもしている。チャンチャンコに下駄ばきと、服装そのものは十年一日のごとくまったく変えようとしないのだから、鬼太郎が「おしゃれ」になったというわけではなさそうなのだが……そのあたりのこだわりは、本人でなければ理解しがたいところかもしれない。
 
 鬼太郎が義眼をはめ終わったのとほぼ同時に、猫娘がすっとんきょうな声を上げた。
「ね、それじゃ、鬼太郎! そのままほったらかして帰ってきちゃったわけ?」
「仕方がないだろ。ほっといてくれっていうんだからさ、本人が……」と、やる気のなさそうな口ぶりで、振り向きもせずに答える鬼太郎。
 猫娘は鬼太郎にとって最も身近な存在のひとりだ。その見かけこそ可憐(かれん)な人間の少女となにも変わるところはないが、彼女はれっきとした妖怪である。名前の通り猫の特性を備えた猫娘は、敵との戦いに臨んだり、怒りや驚きなどで感情が昂(たかぶ)ぶったりした際には、鋭い爪と牙を携えた化け猫のような容姿に変化(へんげ)する。猫族特有の敏捷(びんしょう)さと、もって生まれた激しい気性は、戦いの際には頼れる味方になってくれる。彼女は鬼太郎にとって気のおけない友人であり、そしてかけがえのない仲間なのだ。
 だが一方、猫娘の立場に立ってみれば、その「気のおけない友人」であることが、もどかしいようにも見えた。猫娘は鬼太郎に対して、明らかに「それ以上の感情」を抱いているらしく、しかも、その感情は周りの者たちから見れば、ほとんど一目瞭然といっていいほどあからさまなものでもあった。ところが、当の本人、鬼太郎だけがそれにまったく気づいていないのだから、猫娘の心中はいかばかりかといったところだ。
 もちろん猫娘本人が、そんな気持ちを鬼太郎はおろか、他の誰かにもらしたりすることは決してないのだが……。
 
 猫娘が口に出した「ほったらかして帰って」きてしまった――というのは、もちろん昨夜の楓のことだった。
 妖怪と人間との調整役として、非道な振る舞いを働く妖怪をこらしめ、困っている人間を幾度となく助けてきた鬼太郎が、いかにも「怪事件に巻き込まれている」らしき少女と出会いながら、それをそのまま放置してくるなんて……猫娘にはとても信じられなかったのだ。いかにその少女自身から「ほっといてくれ」といわれたとはいえ、それでも見過ごせずに顔をつっこんでしまうのが、自分の知っている鬼太郎のはず……。
 ぽかんと口を空け、背中を向けたままの鬼太郎を見つめる猫娘。彼女の驚きやとまどいなど知らぬように、鬼太郎はさらに続けた。
「本人がいいっていってるのにさ、無理やりつきまとったりしてみろよ。そんなストーカーみたいなマネ、できるもんか」
 あまりのなげやりないい方に、さすがの猫娘もバカ負けしたのか、少しばかり呆れた口調で「鬼太郎……」と問いかける。
「なんか……らしくないんじゃないの?」
 
 鬼太郎がようやく猫娘のほうに体を向けた。だが、あいかわらず気のない口ぶりで「別に……」と一言、そのままごろりと横になってしまう。ついた肘で重たそうに頭を支えながら、猫娘を見ているのか、見ていないのか、表情にはまったく覇気がない。
 と、そのとき――出しっ放しになっていた義眼コレクションの一番端にあった一個が、ぴょんととび跳ねて立ち上がり、いきなり言葉を発したのだ。
「最近、ずうっとこんな調子でのう。わしも困っておるんじゃ」
「あ、おじさん、そこにいたんだ」と、とくに驚いた様子もなく、〝義眼〟に話しかける猫娘。
 この〝義眼〟の正体こそ、鬼太郎の実の父親――目玉おやじだった。肉体を病で失ったあとも、幽霊族最後の生き残りである息子、鬼太郎を見守るため、その強い意志と深い愛情により、一個の目玉として転生を遂げた「父親」の姿である。
 体が小さいゆえの非力さは否めないが、妖怪世界に知らぬものなしとまで謳(うた)われるその博学ぶりで、これまで何度も息子の危機を救ってきた。またサイズの小ささそのものを逆に活かし、敵の体内や脳髄に入り込んで行動の自由を奪ったりなど、独自の戦法を誇ってもいる。鬼太郎が最も頼りにしている存在であり、そしてまた母親のいない彼にとって、ただ独りの肉親でもあった。
 
 父の小言が始まりそうなのを察したのか、鬼太郎はあえてそちらに視線をやらないまま、さっきよりもさらにつまらなそうな表情を部屋の天井に向けてみせた。
「ふてくされておるというか、やる気がないというか……我が息子ながら情けない。これが人間なら五月病といったところなんじゃが……」
「でも、おじさん、鬼太郎は新入生でも新入社員でもないわよ。そもそも今、五月ですらないし」
 猫娘の入れた茶々がカンに障ったのか、鬼太郎が父に向かって言い訳するような口調でいった。
「だって、父さん、考えてもみてくださいよ。俺がどれだけ助けてやったって、人間たちはちっとも感謝してくれやしないし、そもそも俺たち妖怪のことなんて、すぐに忘れちまう。こんな張り合いのない話はないじゃないですか。これじゃあ、俺、なんのために戦ってるんだか……。 なんで俺ばっかり、いつもいつも……」
 最後はまるで愚痴そのものだった。
 すっかり「正義の味方」のレッテルが貼られてしまった鬼太郎とはいえ、神様でもなければ聖人君子でもない。単なる人――いや、幽霊族――の子に過ぎない。自分の行動や置かれた立場に疑問を感じれば、やる気もなにも出なくなるのは仕方のないことなのだ。
 そもそも鬼太郎は好きこのんで妖怪退治をしてきたわけではない。かりに人間と妖怪とで世界を二分したなら、幽霊族である自分自身は、本来あきらかに「妖怪」の側に属する存在だ。それでも妖怪によって苦しめられている人間たちのため、ときには生命の危機まで犯しながら、同胞ともいうべき妖怪たちと戦ってきたのは、純粋な正義感や倫理観、そして人間社会の片隅で生きていることへの一種の仁義のような感情があったからなのだ。
 鬼太郎のそのモチベーションは、現世利益を伴うものではない。それゆえに美しい。だが美しいからこそ、ほんのささいなきっかけで壊れてしまうものでもある。鬼太郎の行動に対する報酬、見返りはすべて、助けた相手からの感謝の気持ちのみ。感謝されているという実感があればこそ、どんな危険な相手とも戦ってこられたのだ。その「感謝」に対して疑問をもってしまった今、鬼太郎の心は揺れていた。
「ひょっとして、俺のやってることはなんの意味もない、ただの自己満足ではないのか」と。
 これまでも何度か、こんな迷いを抱え、考え込んでしまった経験はあった。だが今回の迷いは少しばかり〝重症〟だったのだ。その原因は少し前に関わった事件にあった。妖狐族の宝、「妖怪石」を巡る騒動に巻き込まれた鬼太郎は、そのさなかにひとりの人間の少女と出会う。互いに行動をともにするうち、鬼太郎と少女の間にはたしかな絆、心の通い合いが生まれることになった。それは――互いに口には出さなかったが、ある種の恋愛感情と呼ぶべきものだった。しかし、事件が終わったあと、「ある事情」によって少女の記憶から鬼太郎の存在は失われ……残されたものは、拭いようのない寂しさだけだったのだ。
 このときの経験は、鬼太郎のトラウマとなっていた。今の鬼太郎が、人間と積極的に関わることにどこか逃げ腰なのも、そのせいなのかもしれない。
 
 鬼太郎の思いを知ってか知らずか、猫娘がからかうようにいった。
「なによ、それ。イイ歳して反抗期?」
「そんなんじゃないよ! 適当なこというなよな!」
 珍しく声を荒げて、猫娘を責める鬼太郎。猫娘もまた「いいすぎたかな」という顔になって、肩をすくめた。二人のやりとりをきいていた目玉おやじが、意味ありげにため息をつきながら独り言のようにつぶやいた。
「わしの教育が間違っておったかのう……。お、そうじゃ、今度、母さんにも相談してみるか」
「母さん」――この言葉に鬼太郎の瞳が反応した。
 母親の墓の中から誕生した鬼太郎にとって、母とは、まだ会ったことがなく、そして今後も会えるはずのない永遠の憧れともいうべき存在だ。母は死者の世界の住人であり、自分とは文字通り「住む世界」が異なるのだから……。これが人間ならば、自分の死後に会えるという道もあるが、幽霊族である鬼太郎は不死に近い生き物だ。寿命というものがあったとしても、それは数百年、数千年も未来のことになる。鬼太郎にとって母親とは「絶対に会えない」、だからこそ「会いたくてたまらない」、ただ独りの相手なのだ。
 その「絶対に会えない」はずの母さんに……今、父さんは「相談してみる」といった。……冗談? いや、冗談にしてはとても笑えないし、そもそも父さんが、母さんの存在を冗談のネタにするわけがない……それじゃあ、いったいどういうことだ……?
 考えを整理するより前に、鬼太郎は父親に反論していた。
「なにをバカなこといってるんですか。会えるはずがないでしょ」
 
 猫娘もまた目玉おやじのいう意味がわからないでいた。鬼太郎の出生については彼女も知っている。猫娘は眉をひそめながら、目玉おやじに訊ねた。
「ね、おじさん。どういうこと? だって鬼太郎のお母さんって……」
 問われた目玉おやじが、ウインクするように、その虹彩を一瞬、閉じてみせた。
「わしが閻魔(えんま)大王と旧知の仲だということは知っておるな?」
「うん。前に自慢してたじゃない、閻魔様にもらった帽子だとかなんとか……」
「帽子だけではないぞ。盆暮れには、『地獄せんべい』や『血の池ラーメン』も送られてくる」
「ふうん、すごいね、おじさん。ほとんど親友みたいじゃない」
 感心しきりの猫娘に、目玉おやじも相好を崩しながら――やや調子に乗りつつ――続けた。
「はははは、親友……かどうかはわからんが、まあ、アレじゃな。オレオマエの仲といってもいいんじゃないかのう……」
 
 鬼太郎は焦(じ)れていた。父親と猫娘がかわす無駄口の連鎖に。
いい加減にしてください、父さん。閻魔大王の帽子も、せんべいやラーメンもどうでもいいです。肝心の母さんの話はどうなっちゃったんですか――口に出してそう問いたいところだが、ここまでの流れを考えると、簡単に父の言葉に乗せられるわけにもいかない。
 そんな鬼太郎のじりじりした思いが伝わったのか、猫娘が話の続きを促した。
「……で、その閻魔様と鬼太郎のお母さんと、どんな関係が?」
「おう、そうじゃったな」と、いずまいをただす目玉おやじ。咳ばらいをひとつ挟んでから、傍らで興味のないふりをし続けている息子を意識するように、ゆっくりと告げた。
「人間世界における、鬼太郎のこれまでの功績が閻魔大王に認められたんじゃよ。地獄始まって以来の特例としてな、今度、わしの妻――つまり鬼太郎の母親の魂を一日だけ、この世に戻してくれることになったんじゃ!」
 鬼太郎の顔色がさっと変わった。
 絶対に会えないと信じ込んでいた母親。というより、はじめからいないものと考えるしかなかった母親。それが、たとえ魂だけの存在とはいえ、そして一日だけとの限定つきとはいえ……母さんに、俺の母さんに……会える、だってぇっ!?
 目玉おやじが、ちらと鬼太郎のほうを見た。慌てて目をそらす鬼太郎。ここで率直に喜びの表情を見せられるほど、今の鬼太郎は素直ではないのだ。
「ホントなの、おじさん!? すっごい!」
 驚きの声をあげた猫娘が、すぐに鬼太郎に顔を向けて「よかったじゃない! ……楽しみでしょ、鬼太郎?」と訊ねた。
「べ、別に!」
 猫娘にいわせれば「反抗期」の鬼太郎は、うっかりすると満面の笑みが漏れそうな口元をことさらに引き締めながら、寝ころんだままぐるりと背中を向けた。
「なんでよ? だって、お母さんに会えるんでしょ?」と、猫娘が続ける。
「だって俺、母さんのことよく知らないし……ていうか、会ったこともないわけだし……だから、会えるとかいわれたって、俺は、その……」
 鬼太郎の返答はしどろもどろだった。
「あ~、照れてる~」
 猫娘の指摘に対し、思わず振り返って「違うよ!」と、声を荒げる鬼太郎。その顔が真っ赤に染まっていたが、本人はそれに気づいていない。いたずらっぽく微笑みながら、猫娘が目玉おやじに視線を向ける。その視線を受け止めながら、鷹揚(おうよう)にうなずく目玉おやじ。
 鬼太郎が、なにか反論しなければ……と、次の挨拶を必死に考え始めたとき――
「お~い、研究員諸君、揃っておるかね?」と、きき慣れた、しかし、あまり積極的にききたいとは思えない声がした。猫娘の表情がさっと曇る。「あ、臭いのが来た……」といいながら、ぷいっと顔をそむける。
 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)は、ねずみ男だった。
「お、鬼太郎研究員に目玉研究員、それに、派遣の猫娘くんも、ちゃんと出勤しておるね。感心、感心。……さ、お嬢さん、どうぞ、中へ。こちらが研究室になっておりまして……」
 ねずみ男が後方へ声をかけた。誰かを連れてきたようだ。扉代わりの板の向こうに、人影が見えている。
「ささ、ご遠慮なさらずに。汚いところですけど……」
 背後の人影が、まだ若干のためらいを示しながら姿を現わした。
「汚いところで悪かったな」と、鬼太郎がねずみ男にいったとき、彼の視界にもう一人の訪問者の顔が映った。
「あ……!」と、鬼太郎と訪問者は同時に声を出していた。
「……きみは……ゆうべの――」
 ねずみ男に連れてこられたのは、もちろん比良本楓だった。
 
「……ふうむ、銀の鱗に『かごめ唄』か」
 包帯が巻かれた楓の手を吟味(ぎんみ)するように眺めてから、目玉おやじが口を開いた。
「どうなんだよ、おやじ? ……じゃなかった、目玉研究員くん」と、ねずみ男。鬼太郎たちをどこまでも「怪奇現象研究所の所員」として押し通すつもりらしい。
「……」
 楓は、テーブルの上で腕組みをしている〝目玉〟にすがるような視線を向けていた。この目玉が、昨夜出会った「ゲゲゲの鬼太郎」と名乗る青年の父親だ――と紹介されたときはたいそう面喰(めんくら)った。これまでの自分だったら信じるはずがない。自在に動き回り、言葉を発する目玉を実際に目撃したとしても、絶対に仕掛けがあるとしか考えなかったはずだ。だが昨夜、自分自身の身に起こった恐ろしいできごとのことを思うと……。
 おばけや幽霊、妖怪といった、そんな迷信めいたものたちの存在を、楓は知らず知らずのうちに受け入れつつあった。
「すまんのう、わしにも思い当たる妖怪はおらんわい」
 目玉おやじが申し訳なさそうにいう。落胆の色を隠せない楓。
「それじゃあ、おてあげですねえ……」と、鬼太郎の口から諦めたような言葉がもれた。
「こら、鬼太郎! ……じゃない、鬼太郎研究員!」
 眉をつりあげながら、ねずみ男が叫んだ。
「なんだよ、大声出すなよ」
「大切なクライアントの前で、なんだね、そのなげやりないい方は! それでも、きみは正義の味方かね!」
 さすがにむっとしたのか、鬼太郎がいい返す。
「お前にいわれたくないよ!」
「おい、鬼太郎!」と、目玉おやじが息子を制した。
「ねずみ男のいう通りじゃ」と一言、たしなめてから、楓のほうを見あげる目玉おやじ。
「すまんのう、お嬢さん。無神経なことをいって」
 鬼太郎も自分の非に気づいたのか、バツの悪い顔になって楓に謝った。
「……ごめん」
「い、いえ……私は、別に……」と楓。たいして期待していたわけではないのだ。怪奇現象研究所……なんてそもそもうさん臭すぎるし、この人たちもどこか怪しい。そう、信じてなんかいないもん。お祖母ちゃんがよくいってたじゃない、他人を簡単に信じちゃいけないって……。
 ぼんやりと考えを巡らせていた楓は、ねずみ男の声で我に返った。
「お嬢さん。その件については引き続き全力で調査させていただきます」
 大げさに敬礼してみせてから、ねずみ男がいきなり話題を変えた。
「さて、研究員諸君、次の案件なんだが……」
 傍らに置かれた大きな風呂敷包みをテーブルに乗せるねずみ男。ここへ来るとき、背負ってきたものである。固い結び目を苦心してほどきながら、目玉おやじに向かっていう。
「実は、俺サマよりも長生きしてらっしゃる方々に、ちょいとコイツを見てほしくってな……」
 そこまでいって、初めて気がついたようにきょろきょろと室内を見回すねずみ男。
「長生きっていやぁ、おい、砂かけ……研究員と子なき研究員はどうしたい? 今日は来てない
のか? 無断欠勤とは許せないねぇ……」
 ねずみ男に背中を向けたまま、好物のカツオブシをかじっていた猫娘が不愛想に答える。
「バカンスよ、二人そろって」
「バカンス? そらまたガラでもねえことを」
「商店街の福引で温泉旅行が当たったんだってさ。二人で遠出するなんて、浦賀に黒船を見にい
って以来だとかで、はしゃいでたわよ」
「黒船って……幕末かよ。生きた化石だね」
「たしか、三浦半島三泊四日だったかな……」
「みうら!?」と、ねずみ男が叫んだ。心なしか顔色が蒼(あお)ざめ、その視線が泳いでいる。絵に描いたような挙動不審……は毎度のことだが。
「三浦がどうかしたの?」と訊く猫娘を無視して、風呂敷の中身をテーブルの上に出しながら、ねずみ男が目玉おやじにいった。
「これこれ、こいつを見てくれよ、おやじ」
 それは古い、古い鼓(つづみ)だった。
 目の前に置かれた鼓をしげしげと見つめてから、目玉おやじがいう。
「これは……鞨鼓(かつこ)のようじゃな。それも……かなりの年代物じゃ」
「だろ? さすがはおやじだ、お目が高い!」
 目玉おやじの所見をきいて、とたんに色めき立つねずみ男。研究員扱いももはや念頭から飛んでいってしまったらしい。
「おやじの審美眼を見込んで頼みがあるんだよ。この鞨鼓をさ、ひとつ鑑定しちゃぁくれねぇかな? ほれ、相場を知らないと、悪徳質屋に買い叩かれちまわぁ」
「悪徳、ですってぇ?」と、自分のことを思いきり棚にあげたねずみ男の言葉をききつけ、猫娘が呆れかえったように大声をだした。
「アンタより悪どい奴が、どこにいるのさ?」
「なにいってやがんでえ。そんなのいくらでもいます~! 人間をなめちゃいけねえよ!」
 むきになって反論するねずみ男。ネコとネズミ……というより、これでは子供の喧嘩である。
「お~い、いま帰ったぞい……」
 戸口のほうから声がした。その声をきいたねずみ男が、さっと身を翻(ひるが)えして、部屋の隅へと逃げるように這っていく。
 入ってきたのは、「バカンス」に出かけていたはずの、砂かけ婆と子なき爺だった。
 
 砂かけ婆と子なき爺――猫娘と同じく鬼太郎の大事な仲間である。
 くすんだ色合いの着物に身を包んだ老婆にしか見えない砂かけ婆だが、その実態は歴戦のベテラン妖怪。砂を自在に操る霊力によって、戦いの場では実に頼りになる存在だ。辺り一面に砂嵐を巻き起こす「砂太鼓」や、両手から大量の砂塵(さじん)を噴出させて群らがる敵を一掃(いつそう)する「竜巻起こし」など、数々の大技を誇っている。また、年配者らしい洞察力や知識も備えており、鬼太郎にとっては目玉おやじに次ぐ相談相手でもある。
 子なき爺は、金太郎の腹がけに蓑を着こんだ「赤ん坊の格好をした老人」という風情(ふぜい)の妖怪だ。普段は酒好きの陽気な爺さんで、その外見に比べてひどく無邪気な性格だが、砂かけ婆と同じく戦闘力は高い。敵に抱きつき一声、「おぎゃあっ!」と泣きわめけば、その体重は実に二トン! のしかかられた敵はあえなく押し潰されてしまう。その他にも、全身を石化して敵の攻撃を防いだり、その姿のまま跳躍して肉弾攻撃をしかけたり……と、戦いのバリエーションは実にひろい。
 砂かけ婆と子なき爺、二人はなぜかうまが合うようで、昔から行動をともにすることが多かった。人間界のテレビに出演して、「妖怪漫才」なる芸を披露したことまである。だが、この二人が互いに互いのことをどう思っているのか、恋愛感情のようなものが存在するのか……については、誰も知らない永遠の謎なのだ。
 
「ほれ、鬼太郎、土産じゃ」と、手にしていた魚の干物を差しだした砂かけ婆に、猫娘が「あれ?」という顔になって訊く。
「ね、三泊四日のはずだったわよね? 帰りは明日じゃなかったの?」
 問われた砂かけ婆は急に口元をゆがめると、苦々しい目つきで隣の子なき爺と顔を見合わせてから答えた。
「それがのう、猫娘。向こうでとんでもないことを……ん!?」
 砂かけ婆が鼻をひくひくさせ、ますます苦い顔つきになる。
「この臭いは……ねずみ男じゃな!」
 片隅で膝を抱えていたねずみ男が、ビクっとして背筋を伸ばした。
「あ、これはこれは……砂かけのおばば。へへ、バカンスは楽しめましたか?」
 いきなりの低姿勢。「研究員」扱いどころではないようだ。
「そんなことはどうでもいい! お前、なんてことをしてくれたんじゃ!」
 横から子なき爺も顔を出し、大声でねずみ男を問いつめる。
「そうじゃ、そうじゃ! 千年も大切に守られてきた磯塚の祠(ほこら)を壊しおって!」
 砂かけ婆が懐(ふところ)から一枚の紙切れを出し、ねずみ男に突きつけた。
 それは指名手配書だった。
「磯塚の祠が破壊され、祀られていた鞨鼓(かつこ)が盗難にあった事件の重要参考人です。見かけた方、情報をお持ちの方は最寄りの警察署まで」と記されている。驚くほどそっくりなねずみ男の似顔絵と、ご丁寧なことに「※異臭あり!」という注意書きまで……。
「……鞨鼓(かつこ)が盗まれたって……じゃあ、これは」と、テーブルの上に目をやる猫娘。そこに鎮座(ちんざ)している鞨鼓(かつこ)を見てから、ねずみ男をもう一度睨みつける。
「盗んできたのね! この泥棒!」
「ど、泥棒とは人聞きの悪い。……と、と、トレジャーハンティングといってくれよ!」
 いい逃れようとするねずみ男だったが、それができるはずもない。砂かけ婆、子なき爺、そして猫娘の三人に詰め寄られては、ただただ首をすくめて、その身を小さくするだけである。
 片手を振りあげた猫娘が、お仕置きに鋭い爪を突き立てようとしたとき、目玉おやじが素っ頓狂(すっとんきょう)な声をあげた。
「おばば! その磯塚とやらは、三浦にあるのか?」
 目玉おやじに顔を向ける三人。その後方では、ねずみ男がほっと安堵の息をもらしている。
「そうじゃよ、おやじ殿。三浦半島に千年前から伝わる、磯塚の祠じゃ」
「……なるほど」とうなずく目玉おやじに、鬼太郎が訊ねた。
「三浦半島がどうかしたんですか?」
「うむ。今の話で思いだしたんじゃがな……。千年ほど昔の三浦半島には、人間の魂を喰らう悪霊がおったときいたことがあるんじゃ」
「魂を喰らう悪霊」との言葉に、楓がぴくっと反応した。
 目玉おやじが、確認するように砂かけ婆に訊く。
「ねずみ男がその祠を暴いたというのは、いつの話じゃ?」
「ああ……」と手配書を見ながら、砂かけ婆が答えた。
「一か月前のことだそうじゃ。……間違いないな、ねずみ!」
 逃げだす準備に入っていたねずみ男が、突然声をかけられてその動きを止めた。頭をかきながら小さく頷き返す。
「あ、ああ、そうだよ。一か月前、俺は三浦へトレジャーハンティングに……」
「泥棒っていいなさいよ!」と、猫娘。彼女が次の言葉を発するより早く、鬼太郎が口を開いた。
「父さん。一か月前といえば……『かごめ女』が現れた時期と……」
「『かごめ女』……!」
 思わず、そう言葉にだした楓のほうを、鬼太郎が振り返った。その視線を受け止めきれず、とっさに顔を伏せる楓。目玉おやじが話を続けた。
「偶然だとしたら……でき過ぎじゃのう」
 猫娘が目玉おやじに訊いた。
「おじさん、で、その悪霊っていうのは?」。
「ああ、悪行の限りを尽くした末に、人間によって封印されたときいておる。じゃが……それ以上のことは、わしもよく知らんのじゃ」
 楓の顔に失望の色が滲(にじ)んだ。それを見てとった目玉おやじが、申し訳なさそうにいう。
「すまん、お嬢さん」
 なにもいえず、ただただうつむくことしかできない楓。と、そのとき、猫娘が指を鳴らした。
「そうだ! あそこに行ってみない?」
「あそこって?」と鬼太郎。
「こないだできたばっかりの、ほら! 妖怪図書館!」
「それはいい考えじゃ」と、目玉おやじが応じた。
「妖怪図書館なら、日本中のあらゆる妖怪に関する記録が残されているはず。善は急げというし、さっそく行ってみよう」
 猫娘が立ち上がった。
「あたしの友達がね、あそこで司書をやってんの。あたし、先に行って、事情を話しておくわ。じゃあ、後でね、鬼太郎!」
 いい終わるやいなや、戸口から飛びだしていく猫娘。その勢いにまぎれて、ねずみ男も立ち上がろうとする。
「じゃあ、俺も妖怪図書館へ……」
 その肩を抑えつけて、強引に座らせたのは砂かけ婆だった。
「ねずみ! お前にはまだ話がある!」
「とことん説教してやるわい!」と、子なき爺が言葉を継ぐ。
さすがのねずみ男も、これには「はい……」と、うなだれるより他ない。
「よし、鬼太郎、行くぞ」といいながら、目玉おやじが息子の肩に飛び乗った。
「はい」
 頷き、そう答えた鬼太郎だったが、いつものような覇気はやはりない。なんとなく気乗りしなさそうな口調で、身を固くして座っていた楓に声をかける鬼太郎。
「ほら、行くよ」
「え? わ、私も、ですか?」
 鼻の穴から大げさに息を吐きだしながら、鬼太郎がいった。
「当たり前だろ。誰のために行くと思ってるんだよ」
 鬼太郎らしくないものいいだった。日頃の鬼太郎なら、こんな配慮のかけらもないようないい方は絶対にしないはずだ。
目玉おやじが小さくため息をついた。
 
       ※※※※※
 
 妖怪図書館とは、その名の通り妖怪たちが調べ物や読書に勤しむためにつくられた、妖怪専用の公共施設である。
 館内の書庫には過去から現在まで、日本全国の妖怪に関する膨大な資料が可能な限りの方法で集められている。絵巻物に古文書、数巻組みの百科事典に、妖怪史をまとめた大著……など、ここに来れば日本妖怪のすべてがわかるといっても過言ではない。目玉おやじが長年かけて著した「現代妖怪総覧」なる和綴(わと)じの書物も、ここに寄贈され、大切に保管されている。
 この妖怪図書館には、当然のことながら人間が入ることはできない。というより、人間には絶対にたどりつけない場所にあるのだ。
 
 東京下町のはずれに建つ一棟の古い廃ビル。百年近くも前につくられ、戦争の被害を奇跡的に免れたその五階建てのビルには「四階」がなかった。正確にいうなら「四階に該当するフロア」はちゃんとある。ただし、そのフロアは「五階」と呼ばれており、旧式のエレベーターの表示板にも、「三階」の上は「五階」と記されている。
 昔の日本人は「四(し)は死に通ずる」として、伝統的に「四」の数字を嫌っていた。このビルに四階が存在しないのも、そんな縁起かつぎの一例だ。だが妖怪図書館は、この廃ビルの「四階」にあるのだ。
 
 楓を連れて、妖怪図書館のある廃ビルまでやってきた鬼太郎は、エレベーターホールの前で立ち止まると、ポケットから一本のペンをとり出した。漢数字で「一」「二」「三」「五」「六」と書かれた表示板の、その「三」と「五」の間に、「四」と書き加える。
 傍らの楓は、その行動の意味がわからず、ただそれを眺めていた。息子の肩の上から、目玉おやじが説明する。
「まあ、黙ってついてきなさい。人間が『四』の数字を嫌うのならば、わしら妖怪がそれを利用させてもらおうという話じゃよ」
 やがて、耳触りな音を立てながらエレベーターの扉が開いた。先に乗り込んだ鬼太郎に促され、楓もその中へ入る。扉が閉まり、ゆっくりと上昇を始めるエレベーター。二階、三階と通り過ぎて、エレベーターが停まったその場所は――存在しないはずの「四階」だった。
 
 扉の外側は、まさしく「妖怪のための図書館」そのものだった。薄暗いフロアの壁のあちこちでは、つるべ火、姥が火(うばがび)、化け火、たくろう火などの〝炎系〟妖怪たちが、照明係としてその身を燃やし、周囲を照らしだしていた。
 何列にもわたって並べられた書棚の隙間からは、熱心に本を選ぶ妖怪たちの姿も見える。
 
 楓は息を呑んで、その異様な光景を見つめた。この日本に、まさか、こんな場所があったなんて……昨日まで信じていた常識が、今、楓の中で音を立てて崩れ落ちていった。
「鬼太郎、遅かったじゃない。こっち、こっち!」
 フロアの片隅に置かれた大机から、猫娘が手を振った。そちらへ歩み寄る鬼太郎と楓。
 猫娘の目の前には、たくさんの本や巻物などが開かれていた。
「目ぼしい資料を出してもらったんだけど……なかなか、ね」と、肩をすくめながら、机の上の書物の山を示す猫娘。無言のまま猫娘の向かい側の席につく鬼太郎。ついてきた楓が、手持ちぶさたな様子で立ち尽くしているところに、猫娘が声をかけた。
「ほら、楓ちゃんも座ったら?」
「は、はい……」と小さな声で応じ、鬼太郎の隣に腰を下ろす楓。
 そのとき――
「お待たせしました。猫お姉さま、これを……」と、背後の暗がりから女の声がした。立っていたのは、この図書館の司書を務める妖怪、文車妖妃(ふぐるまようび)である。
 平安時代の女官が恋文などをしまっておいた文箱が変化(へんげ)したといわれる、付喪神の系統に属する妖怪だ。出自のためか、歴史や学問に造詣が深く、その知識と才をかわれて妖怪図書館の司書に推挙されたのだ。
「あ、妖妃ちゃん、なにか見つかった?」と問う猫娘に対し、頷きながら文車妖妃が差し出したのは「妖怪ノートパソコン」だった。膨大な蔵書の整理と、閲覧時の利便性のために、文車妖妃は資料のデータベース化を進めているらしい。猫娘から「千年前の三浦の悪霊」について知りたい――というリクエストを受け、その豊富なデータベースから関連する情報を引きだしてきてくれたのだ。
 机の上に置かれたパソコンの画面を覗き込む、鬼太郎、猫娘、そして目玉おやじ。楓は少し離れた場所に立って、三人の後ろ姿を見つめていた。
「どうぞご覧ください。三浦の悪霊に関する記録です」
 文車妖妃が、パソコンのトラックパッドをぽんと叩いた。
 
 画面の中で展開されたのは、絵巻物風のアニメーションだった。千年前、平安時代後期の三浦半島で起こったできごとの記録である。三人の妖怪と一人の人間は、一言も発しないまま、そこに映し出される光景に見入った。
 白装束をまとい、長い黒髪を振り乱した悪霊が、夜道を歩く若い女に襲いかかり、そして――
楓は、その光景をまともに見ていられなかった。昨夜、自分自身が体験した、あの恐ろしい事件とあまりにも似過ぎていたからだ。できれば忘れてしまいたい忌まわしい経験。だが、忘れようとしても、自分の左手の甲にはアレが……。昨日のできごとが「現実である」と、そう冷徹(れいてつ)に告げる銀の鱗が……。思わず目を閉じてしまう楓。次に彼女が目を開けたのは、画面のアニメーションが終わり、目玉おやじが言葉を発したときだった。
「なるほど、悪霊は目をつけた人間に、銀の鱗を貼りつけて目印にしておったと……」
「!」
 楓が身を固くする。無意識のうちに左手を背中に回していた。
 銀の鱗……目印……やっぱり同じだ、私と……!!
 目玉おやじの言葉が続く。
「……そして、『暁(あかつき)を二つ越え、次なる丑三つ(うしみつ)を迎える頃、迷いミミズクの啼(な)く声とともに』……」
「鱗を付けた人間の、魂を奪いに来るのね……!」と、猫娘が引き取った。
「同じ、ですね。やはり『かごめ女』と」
 鬼太郎の言葉は、楓の耳に届いていなかった。 彼女の脳裏に蘇ってくるのは、昨夜の悪霊の声だけである。
「お前の魂、もらいに参る」――そうか、あれはそういう意味だったのね。
 背筋に氷が張ったように、針のごとく鋭い悪寒が楓の全身を刺し貫いていた。
 
「……じゃが、おかしいのう」
 目玉おやじが首を傾げながらいった。
「なにがおかしいの、おじさん?」
 猫娘のほうを見ながら、疑問の中身を口に出す目玉おやじ。
「お嬢さん、『かごめ女』は『かごめ唄』を歌いながら襲ってきたんじゃったな?」
「は、はい……」と、震える声で楓が答える。
「ふむ……。『かごめ唄』が成立したのは、たしか江戸時代の末期から明治にかけてのはず。この悪霊とは時代が合わんぞ」
「あ、おじさま、そのことでしたら……」
「ん? なんじゃ、文車妖妃?」
 懐からとりだした古文書を指し示しながら、文車妖妃が説明した。
「おっしゃる通り、定説では『かごめ唄』は江戸時代から明治時代にかけて成立したといわれています。けれども、その原型となった歌は、もっとはるか昔、平安時代の後期にはすでに歌われていた……という説もあるんです。文献も残っていますよ」
 小さく拍手をしながら、猫娘が感嘆の声をあげる。
「すごいわ、妖妃ちゃん。さすがは妖怪図書館の司書ね」
 猫娘に褒められたのが照れ臭かったのか、文車妖妃はぽっと頬を赤らめながら、そそくさと妖怪ノートパソコンを操作した。「そして、これが、その悪霊を封印した儀式の記録です」と語る言葉も、どこかぎこちない。
 画面の中に、平安期の礼装を着こんだ数人の人間たちが映しだされた。その数は五人。各々、手に古い和楽器を持っている。
「そうか!」と、目玉おやじが手を打った。
「悪霊は、『護人囃子の儀』によって封印されたのか!」
「ごにんばやし? なんですか、それ?」
 眉間に皺を寄せた鬼太郎が、父親に訊ねた。うん、と頷いてから、答える目玉おやじ。
「法力の宿った楽器で魔物封じの旋律を奏でる、修験道の儀式じゃよ。用いられる楽器は五つ。『鉦鼓(しようこ)』、『鳳笙(ほうしよう)』、『楽琵琶(がくびわ)』、『篳篥(ひちりき)』、それから、ほれ、もうひとつ、ねずみ男が盗んできた、例の『鞨鼓(かつこ)』じゃ」
 説明しながら画面をもう一度、凝視する目玉おやじ。
「このとき用いられた楽器のありかも書かれておるぞ! ふむふむ……楽琵琶と鳳笙、それに鉦鼓は、それぞれ『天』『地』、『海』に棲む妖怪に託された、と……」
「残りの二つはどうなったの?」と、猫娘が疑問を口にした。
「ううむ、完全な記録ではないのかもしれんな。篳篥と鞨鼓については記述がないわい。じゃが、鞨鼓のほうは今、わしらの手元にあるアレで間違いなかろうて」
「じゃあ、おじさん! 楽器を全部そろえて、その護人囃子をもう一回やれば、楓ちゃんにかけられた呪いも……」
「そうじゃ、悪霊を封印することができれば、その呪いも解けるかもしれんぞ!」
「よかった! きっと助かるよ、楓ちゃん!」
 猫娘が楓の肩をぽんと叩き、嬉しそうにいった。だが楓は曖昧にうなずくことしかできない。悪霊、呪い、そして護人囃子……これまでの人生とはあまりにかけ離れたことばかりが続いたため、思考能力も多少、低下しているようだった。
「おじさま、この古地図も見てください。たぶん、その楽器のありかに関係が……」
 文車妖妃がひろげた古地図には、関東地方一円と思われる見慣れた地形が描かれていた。海岸線から内陸部にかけて、描写はかなり詳細で、かつ正確なもののようだ。地図上の三か所に赤い印が付けられ、その横に「天」、「地」、「海」という文字が書かれている。順に山頂、緑地帯、そして近海上らしき場所である。さらに、三つの印が置かれた場所について説明を加えるように、こんな書き込みもあった。
 
「霧に眠りし顔」
「竹の導きし床(とこ)」
「海に浮かびし臍(へそ)」
 
 鬼太郎が書かれたままの文字を口に出して読み上げてから、首をかしげた。
「……なんだ、これ? 暗号、ですかね」
「わからん。わからんが、だが――」と、目玉おやじが声を張る。
「三つの楽器のありかを示す、重要な手がかりには間違いないぞ」
「あっ! ちょ、ちょっと待って!」
 猫娘がいきなり大声をあげた。驚いて、彼女のほうを見る鬼太郎、目玉おやじ、文車妖妃、そして、楓。一同の顔を確認するように見回しながら、猫娘がいった。
「さっきの、ほら、悪霊の話だけど……『暁を二つ』っていうのはさ、『朝が二回』って意味じゃない? だとしたら……それを越えた『次なる丑三つ』って――」
 そこまでいってから、楓のほうに顔を向ける猫娘。頬をこわばらせながら、次の言葉を口にした。
「楓ちゃんが襲われたのは、昨日の夜でしょ? だったら、悪霊が魂を奪いに来るのは……明日の真夜中ってことになるんじゃないの!?」
「!!」
 楓の顔から音を立てて血の気が引いていった。
 明日? 明日の真夜中……!?
 嘘……でしょ……。私、私、明日の夜中に……死んじゃうの……!?
 ただでさえ薄暗い妖怪図書館のフロアにあって、鬼太郎たちの周囲だけがさらにさらに暗さを増して見えていた。
 
       ※※※※※
 
 空がしらじらと明るくなりつつある頃……。
 妖怪図書館を出た鬼太郎たちは、いったんゲゲゲの森へと戻っていた。たくさんの書物と、それに、おなじみとなったノートパソコンを携えた文車妖妃も一緒だ。
 猫娘が例の古地図と現代の地図をともにひろげて、見比べながらいった。
「ええと、琵琶のある『天』が箱根の神山、鳳笙(ほうしよう)の『地』が高尾山、それから鉦鼓(しようこ)の『海』が三浦半島沖……間違いないわね」
 鬼太郎に視線を向けて「鬼太郎は神山をお願いね。高尾はあたしに任せといて」と告げる猫娘。
「あ、ああ……」
 急を要する事態だというのに、鬼太郎はまだ本来の姿を取り戻していない様子だ。そんな息子をため息まじりに見あげながら、目玉おやじがいった。
「三浦は砂かけと子なきに頼もう。行ってきたばかりの場所じゃ、土地勘もあるじゃろうて」
「オッケー、あたしが伝えとくわ」と応じてから、猫娘が傍らの木陰に向かって声をかける。
「三つ木霊(みつこだま)ちゃん、来てる?」
 ガサガサと木立ちが揺れ、その奥からいたいけな声が響いてきた。
「はーい!」
 木陰から姿を見せたのは、時代がかった衣装に身を包んだ三人の子供たち――ハルカ、ヒビキ、ワタルという名の幼い木霊(こだま)の姉弟――妖怪、三つ木霊だった。彼ら三人はどんなに遠く離れていても、瞬時に意思の疎通ができるという、さながら携帯電話のような特殊能力をもっている。
「ふうむ、考えたな、猫娘。三つ木霊なら通信係にうってつけじゃの」
 目玉おやじが感心したように声をもらした。
「じゃ、お願いね」と、三つ木霊にいう猫娘。
「はい、準備はできています」と、ハルカ。
「あたいたちに任せといて!」と、ヒビキ。そして――
「わーい、遠足だーっ!」と、場違いな喜びの声をあげるワタル。
 三人は「せ~の!」と声を合わせ、そして次の瞬間、三体のコケシに姿を変えた。すかさず駆け寄った猫娘が、そのコケシを拾いあげる。
「はい、鬼太郎は……うん、ヒビキちゃん持ってって」
「う、うん」
「残った篳篥(ひちりき)については、わしが残って調べておくわい。頼むぞ、文車妖妃」
 文車妖妃を見あげながら、目玉おやじがいった。
「はい、責任もってお手伝いさせていただきます」
 にこやかに応じる文車妖妃。そのやりとりを見てから、猫娘が鬼太郎にいった。
「いってくるわね、鬼太郎」
返事も待たずに、夜明けの暗がりの中へと消えていく猫娘。それを黙って見送る鬼太郎。ややあってから、目玉おやじが口を開いた。
「ほれ、鬼太郎。お前もそろそろ……」
「あ、ああ、そうですね……。じゃあ、行くよ」
 ぶっきらぼうないい方で、鬼太郎が楓を促した。虚をつかれたのか、気の抜けたような声で言葉を返す楓。
「え? 私も……行くんですか?」
 ことさらにため息をつきながら、鬼太郎が面倒臭そうに応じる。
「またそれかよ……。だからさ、当然だろ。きみのために行くんだぜ」
「で、でも、私……」
まだためらっている楓にしびれを切らせたように、鬼太郎がいった。
「ほら、急ごう。カラスが待ってる」
 くるりと踵(きびす)を返して、すたすた歩き始める鬼太郎。なにかいいかけ、それをやめ、目玉おやじと文車妖妃に軽く頭を下げてから、楓が鬼太郎を追いかける。
 遠ざかっていく二人の背中を、目玉おやじが心配そうな目で見送っていた。
 
       ※※※※※
 
 今が昼間なのか、それとも夜なのか……。一筋の陽射しさえ入り込む隙間もないこの暗黒の地下空間にあっては、時間の概念そのものが存在しないかのように見えた。
 何層にもわたって折り重なった岩盤を、なかば強引に掘り抜いたような通路のそこかしこには、めらめらと松明が炎を揺らめかせ、その炎を受けて密生したヒカリゴケが間接照明のごとく周囲をぼんやりと照らしだしていた。
通路の奥深くから、それとは別の明かりがもれている。そちらへ続く石段を今、一匹の大蛇がにょろにょろとはい上がっていくところだった。
 石段を上がりきると、大蛇はやにわにその体を屹立させた。シャーっという耳障りな音とともに脱皮した大蛇は、一人の老婆へと姿を変える。まとわりつく抜け殻を邪魔そうに脱ぎ捨てると、老婆は明かりの向こうに背中を向けて座っている、もう一人の人物に向かって声をかけた。
「大願成就まで、あとわずかじゃのう、ぬらりひょん……」
「ぬらりひょん」と呼ばれた人物は、返事はおろか、微動だにしない。ただ黙って、かがり火の焚かれた祭壇の前に座り、口元だけで何か呪文めいた言葉を発しているだけだ。
 老婆も、そして「ぬらりひょん」なる人物も、ともに妖怪だった。
 
 ぬらりひょん――その名をきいて震えあがらない妖怪がこの国にいたとしたら、それはもぐりだ。数百年もの間、表に出ない隠遁(いんとん)の日々を送ってはいるが、その実力から「日本妖怪・闇の総大将」とまで呼ばれる大妖怪……それが、このぬらりひょんなのである。
 大蛇の皮を破って登場した老婆は、蛇骨婆(じゃこつばばあ)という。永い、永い年月をぬらりひょんに仕えて過ごしてきた、いわば彼の軍師、参謀のような存在である。
 その蛇骨婆が、さも楽しげな口調でいった。
「この世の盟主をきどった愚かな生き物どもに、身の程というものを知らせてやらねばなるまいて。しゃっしゃっしゃっ……」
 ぬらりひょんの大きく突き出た後頭部が、ふいにどくんと脈打つ。固く閉じられた瞼の下に刻まれた、幾重もの皺。その一筋一筋には、ぬらりひょんの高い知性と、そしてどこまでも暗く、深い怨念とが、ともに込められているようだった。彼の背中から生じる闇の重さが、蛇骨婆の口からも言葉を奪っていく。
 ふいに、ぬらりひょんが目を開けた。手にした杖を掲げ、目の前の祭壇に向けて振りかざす。
「!」
 思わず目を見張る蛇骨婆。祭壇の中から青白く淡い輝きをまとった物体が、ぼっと浮かび上がった。それは――人間の「霊体」だった。霊体は、ぬらりひょんの操る杖の動きに合わせるように、そのまま天井へと舞い上がる。
 天井にあったのは、完全なる闇だった。青き霊体がその闇に吸い込まれると同時に、闇は一瞬、かすかに声をあげた。
 そう、それはたしかに「声」だった。
 怨み、憎しみ、怒り、悲しみ……それらの負の感情すべてを総称するとすれば、はたしてなんと呼ぶべきだろうか……。
 そう、悪意! 
 闇が発したその声には、悪意のみが満ち満ちていた。霊体は、悪意にまみれた呪詛の闇の、生け贄になったのだ。
 声がやむと、ぬらりひょんは再び目を閉じ、動きを止めた。蛇骨婆が立てる衣ずれのかすかな音だけが、祭壇のかがり火に溶け込んでいた。
 ぬらりひょんは何も語らない。

――「#02」へ続く――

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