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1000文字の写真論

7  空間に遊ぶ


写真の要素ということで「時間」とともによく問題にされるのが「空間」です。物理的な意味だけに留まらず、そこから深く、厚く、広がっていくイメージの上でも、空間という認識は案外大事です。空間なくして写真は語れないというのはいい過ぎかもしれませんが、カメラを持つ人なら何らかの意識をしていく必要はあるでしょう。

 この「空間」は、被写体としての「モノと場」を経て自然に立ち現れてくることがあります。経験上でいえば、大学の初めての実習で学生さんにカメラを持たせてキャンパスを歩いてもらいますと、まず好奇なモノの発見から始まります。次いで、それが置かれている「場」も意識するようにしてもらいますと、そこに「空間」が生じていることがわかってもらえます。そしてその空間に密度や巧みな配置のようなものが見えてきたら、それを丁寧に描写してみましょうと提案します。「空間の発見」ということです。そこから何か具体的なモノが写った、写らなかったということ以上に、ちょっとした緊張感が撮り手の心に生まれていることを気づかせます。

アメリカのカラー写真の第一人者であるスティープン・ショアが書いた「写真の本質」という本では、この空間を認識することについては「メンタルレベル」の上で「浅さ」と「深さ」ということで比較しています。遠い山並みを撮った風景写真よりも、黒バックのそこに置かれた干からびた桃の写真の方に精神的な深い空間が感じられないかとショアは問いかけています。何だか哲学のようですが、イメージとしての空間は平面的な写真に立体的な彩りを与えているといってよいかもしれません。

 もちろん、空間は写真だけの問題でなく、もともと絵画につきものの要素であり、画家たちはキャンバスの上で試行錯誤を繰り返していきました。映画も空間と時間の双方をコントロールして上手に見せていく表現です。しかし、やはり写真にとっての空間は、そのまま定着している分、より露わになっているように思えてなりません。そしてだからこそ、いろいろな用い方、処理ができるのではないかと考えます。しかも、それを写真という「平面」で行えるわけですから、、これほど挑戦的なものはありません。この空間をいかに面白がり、また遊べるかによって、作品としての自立が可能でしょうし、写真を見る人たちにその画面を眺めてもらえる時間をほんの少し増やしてもらえるものかもしれません。



古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。