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「写真」について考えてみる 004

  写真の「物語」とは

 古今東西、私たちの世界、社会を写すとき、一枚の「写真」に物語の要素が入り込んでくる余地は必ずといってよいほどあると思っています。被写体のそこでの時間経過や自然事象の条件、移動などの単なる物理的な変化、意味のある出来事、あるいは意味のない出来事や仕草。それらは映画スクリーンを見ているような「ドラマ」ではないにしろ、なにがしかの情動をそこにいる撮影者に感じさせるとしたら物語としての時間と空間が生まれているのかもしれません。


 しかし、一方で、そうした情動(情緒性)などを吹っ切ったところで撮るべきだという考え方も現代写真の中にはありますし、結果として写ってしまったものも写真です。過剰な思いに彩られた物語をそこにイメージし、そのような作りに終始することなく、そこで自然に素朴に生じてくる「万感やるかたなく押すシャッター」というものに賭けてみる。この言葉は、私の母校の校長であった写真評論家・重森弘淹先生が授業中によく話していたもの。私は「万感」という2文字の底に、容易に表には出ない物語のほとばしりも秘められているということだろうと若い学生の身ながら解釈していました。
 物語は常について回るものだと思うべきでしょう。

被写体や背景とすれ違っていく写真

 ここに「物語」が浮かび上がってくる可能性は少ないのではないでしょうか。被写体と背景の関係があまりにも唐突だからです。近くに座っていた海外からやってきた女性に声をかけて撮らせてもらったもの。その出会いに物語はありますが、まさにフアッション撮影のような趣き。それを意識したものです。

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被写体の内面へと向かう写真

 「町工場の主人は無口で朴訥な人だった」。それだけを文字にしても物語性を感じさせます。意を決して撮らせていただいたことも物語の一部になりました。しっかり対峙して撮った写真はご主人の内面へと向かい、その生きてきた道筋を照らしていきます。

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 この写真には後日談があります。工場の近所の「文化センター」で開催した写真展「町の息づかい」にこの写真も飾らせていただきました。それをこの男性の娘さんが偶然ご覧になり、父の在りし日の写真であると教えてくれました。私はもちろんお亡くなりになったことも知らず、この写真をまだ届けてもいなかったことをおわびし、後日娘さんにお送りし喜んでいただけました。

 現在建物と看板だけが残っていますが、朴訥ながら戦後長年お仕事を続けてきた一人の男性の息づかいもそのまま残っているように思えます。そして、写真家である私も「物語」の中にいつしか足を踏み入れていたようです。

2019 11月号「フォトコン」特集原稿を再録改変。

古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。