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1000文字の写真論

9 被写体としてのヒト

 写真の発明(1939年・仏)により、それまでのブルジョア層の「肖像画」が「肖像写真」への人気に取って代わったという歴史が物語るように、ヒトの顔、姿、形といったものはよりリアルなイメージとして人々の手に渡りました。
 1860年代の「名刺写真」のブームは、いつでもどこでも愛しいヒトと一緒にいることができるという点で画期的だったはず。ヒトの写真は古今東西、その時代ごとによって新たな意味も加わり、たった今も刻一刻と量産し続けられています。

 愛しいヒトの写真ならまだしも、自分が写った写真を見るのは、アイドルやタレントさんは別として、多分多くの皆さんが100%自分の容姿をそのまま受け入れているとは思えません。そこに写った自分は、いつも「自分らしい」と思えるだけで、「自分である」と断定していない側面を持っているからです。  例えば、鏡の前に立ち右手を上げた自分は鏡の中では(線対称ですから)、ちやんと右手を上げていますが、写真に写った自分ならば左に(右手として)映ります。点対称だからです。そして、そのような姿として普段私たちは自分を肉眼で見ることはできません。だからちょっと不思議なのです。

 そうした関係を意識せずとも、これが自分の顔だったかということを懐疑的に思うこともあります。では自分らしい表情とはなんだったか思い出そうとするのですが、これも簡単には出てきません。そしてそれは他者においてもそう思える場合があります。「こんな顔してた?」というように。だからこそアイドルは不変のイメージをレンズの前に日夜見せようとするのですし、カメラマンはそれをインプットして懸命にシャッターを押すわけです。

 つまり被写体としてのヒトは、なかなか一筋縄でいかないということです。その場の状況、条件、そこに写ろうとするヒトの意識などにより細かな変化が生まれます。さらにその後写真として手にするとき、あるいは勝手に写真が次々と渡っていくとき、そのヒトのイメージも複雑で多様なものとなっていきます。したがって、簡単に「そのヒトらしい写真に写った」などといえやしないのかもしれません。しかし、大事なことは、私たちはそこにいるそのヒトのアイデンティティにしっかり向き合い、寄り添うということなのでしょう。

 「ヒト」はもちろん「人」の字なのですが、漢字には「支え合う」というよりも自立し生きるという解釈もあるようです。


古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。