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1000文字の写真論

8  「物語」はそこにもある


写真の講評会を行い、まず作者にその作品の簡単な説明をしていただきますと、案外これが長くなってしまうことがしばしばあります。みなさん思いの丈をここにぶつけてくるからです。そのお気持ちはよくわかるのですが、みなさんご自身の「物語」がそこに出てきてしまい、肝心の内容まで見えてこないということもあります。この「物語」、もう少し写真に即したものとして見直してみることも大事かもしれません。

 もとより、写真をわざわざ言葉で説明するということはなんだか本末転倒のように思えたりしますが、写真に添えるキャプション(説明文)も含め、写真を何枚か組み合わせて見せていくグラフ・ジャーナリズムが台頭してきた時代があります。1936年にアメリカで創刊された「LIFE」に代表されるグラフ雑誌では、この組写真をいかに並べる(編集する)かに力が注がれ、もちろん文章による「記事」も加わりました。つまりそこになんらかの「話し」、「物語」を読者に提供していくという方向があったのです。
  日本でも戦時中、国威発揚ともいうべき雑誌が作られ、有名写真家が起用されたという歴史もあります。そこにはまさに戦争が進むにつれての事実、物語が誇張され歪曲され届けられていきました。
  そうした写真史を辿るまでもなく、「物語」と写真は密接な関係にあるといっても過言ではありません。特に組写真においてそれは直接的に表現されることもあります。時間の経過、変化、空間の展開などに応じて「物語」が自然に写真を見る人の深層イメージに働いていきます。そして、もちろん一枚の写真についても「物語」が介在することも多く、みなさんの応募されるコンテストなどでは定番ともいえるものです。ただ、そこでのお話がどうも今一つのものが多く、見ていればわかるといった程度のものに仕立て、ハイ終わりいうものが目立ちます。
  スナップショットに限っていえば「その状態、その仕草を説明しました」で終わってしまい、その前後に必然として備わっていた、あるいは備わるであろう豊かな物語がイメージとして浮上してこないものが多いのです。

  木村伊兵衛のスナップショットの自然さは、実はその前後の物語に裏付けられた「顛末」であったり、一部をスーッと抜いてきたものから成立しています。実際にライカのシャッターを続けて押しています。だから生き生きしているのでしょう。強く意識せずとも「物語」はどこにでもあるものです。


古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。