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1000文字の写真論

5  写真の土壌、「時間」と「焦点」

「時間」と「焦点」。なんだか松本清張のミステリーのよう。そこにアリバイもトリックもありそうです。 

 「時間」は、高速シャッターや長時間露光も含めシャッター速度に関わることはもちろんですが、一枚の写真の撮られた時、それを見る今という時間の重なりも自然に関わってきます。例えば20年前に撮った自分のカラースライドをルーペで見ているとしましょう。そこには「かつてあった、いた」風景や人が写っています。過去です。しかし、その写真をルーペで見ているのは今。その風景、人の状態をまさに写真を通して見ています(次の動きを連想することもあるでしょう)。つまり写真を見る上ではいつもその状態を「現在」のこととして見ている場合が多いということです。ただし、黄変した子供の頃のモノクロ写真はやはり古い記憶となります。そこに「歴史」を見ているのですが、先ほどのカラースライドも近過去のささやかな「歴史」に一瞬立ち会うということになります。そして過去から現在への時間軸がそこに立ち上がってきます。豊かな写真イメージは、この縦軸に横軸が綺麗に加わってくると成立するものかもしれません。ここでいう横軸は写真的な「空間」ということかもしれませんし、私たちの率直な日常そのものかもしれません。

『写真映像とはつまるところ、歴史そのものであり、歴史の映像といってよいものである。』(1967・重森弘淹「写真芸術論」)

次に「焦点」もカメラのピントということに集約されるように思えるのですが。今のようにオートフォーカスが主流になる時代の前は、どこに焦点を合わせるかというのはとても大事な仕事でした。焦点は「視点」とすると理解できるように、その撮影者のその写真の大きなポイントであり「見え方」、「見方」ということにつながります。
 また、撮影者が一つのところに焦点(いわば「フォーカスポイント」)を与えて撮った写真であっても、それを見る側はその平面状では焦点を細かく移動して見ています。であるならば、写真を撮る人はそのことを納得し、焦点面だけでない部分にも気を配る必要も出てくるかもしれません。さらに、焦点は距離に関わるわけですから「同一面」が出てきたりします。そこもおざなりにできません。
 つまり焦点は案外繊細なものであり、写真を撮る人の意思に関わるものだといえます。決してカメラが勝手に決めてくれるというだけのものではないのです。

 松本清張が「時間と焦点」にこだわるのも無理はありませんね。



古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。