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猿でも出来る作曲Life Act.1(音楽活動時代編 1)

DTMによる作曲の話を始める前に
ほんの少しだけ私の拙い音楽遍歴について
触れさせていただきたい。

そうすると音楽的に何故ここ(DTM)へ至ったのかを
より明確にお伝え出来ると思うので。


子供の頃から音楽は好きだった…が
授業の音楽(音学)については成績はさっぱり、

ハーモニカやリコーダーすら
上手く吹くことが出来ずに

クラスの合奏では演奏能力に支障のない
トライアングルやカスタネット担当。

ならば、と小学校高学年で構成された鼓笛隊で
一念発起して指揮者を志願したものの

リズム感が無いからか統率力が無いからか
いつの間にか別の楽器に交替させられた。

ただ人前で歌うことは幼い頃から好きだった、

幼少期に地区の日帰り旅行に行った時は
バスの中で行きも帰りと
延々とアニメの主題歌を歌っていたらしいし

最も鮮明に記憶にあるのが
小学校1年の最後のお別れ会の時

何かひとりひとりやりたいことを、と言われ
私は1人、みんなの前に立ち

沢田研二さんの「勝手にしやがれ」を
熱唱した。

この場に参加していた保健の先生が
ジュリーの大ファンだったらしく

沢田さんのトレードマークでもあった
テンガロンハット(的な帽子?)に見立てて

保健室から麦わら帽子を持ってきてくれ
アンコールをせがまれると

当たり前のように歌いサビの部分で
沢田さんを真似て帽子を投げ喝采を浴びた。

私は人前でこうしたパフォーマンスをするのが
好きな人間なんだと実感した。

確か中学生の時も転校前のお別れ会で
同じようなことがあった。

こう言った"ステージ度胸"の類いは
自分の才能のひとつなのでは?

ある時そんな風に思い始めた。

中学1年からバンド系の音楽、
メタルやハードロックを聴くようになり

高校に入るとなけなしの小遣いをはたいて
B.C. RICHのベースを買った。

手にマメを作りながら
人並みに演奏出来るまでになり

いよいよ友人たちとバンドを結成しよう、
そんな流れになっていった。


その時集まった仲間は3人、当然ながら
私はベースを担当する…はずだったのだが

このバンドには肝心のボーカルが不在だった。


そこで "歌える" メンバーを募集したのだが
連絡があるのはギター、
もしくはベースが出来る奴らばかり。

その中にはなかなかのテクニシャンもいた。

ならばボーカルを募集するのではなく
ギタリスト、またはベーシスト加入させて

その新メンバーと既存のメンバーが
じゃんけんをする、

そして勝った方が好きなパートを選択できる

即ちじゃんけんで負けた者がこのバンドの
ボーカルとなると言う安易な手段で

バンドの花形とも言えるボーカルを
じゃんけんで決めると言う適当なやり口。

結果、新たにベーシストが加入し
私は彼にじゃんけんで敗北を喫し

自身のバンドキャリアにおいて
初めてのパートがボーカリストとなった。

思えばそれも悪くはなかった、

元々、表現者としての才覚はあるのでは?
と言う自覚も少なからずあったし

まずボーカルと言うのは意外と楽だ、
それは担当パートてして、ではなく

練習でスタジオに入る時やライブの時も
重たい楽器を持って移動する必要がない。

この頃はまだコピーバンドなので
作曲に楽器を使うこともない

喉の自己管理を怠りさえしなければ
チューニングもしなくていい。

そして何よりもありがたいのが
楽器代や弦にかかる諸経費ゼロ、
ひいてはエフェクターなど買う必要もない。

いつしか私はどのバンドでも
専任のボーカルとなり

せっかくベースを弾いていたのに
楽器を手にすることから離れていった。


お世辞にも決して歌が上手いわけではない、

ギターを弾きながらでも
私よりも圧倒的に上手いボーカルは
それこそどこにでもいた。

それでもライブを始めるようになってから
ステージにはそれなりの自信を持っていた。

初ライブは高校2年生の学園祭

当時、友達バンドがカバーしていたのは
ラフィンノーズやブルーハーツ
そしてレッドウォリアーズ、と言った

比較的音楽仲間で人気のあるバンドたち。

中には少しハードな44マグナムやANTHEMを
カバーしている友人もいたが

誰もが割りとポピュラーな選択をしていた。

そんな中、私たちのバンドがカバーしたのは

スターリンの曲だった。

THE STALIN 

後のライブではガスタンクの曲も演奏した。

GASTUNK 

我が家は当時、縫製業をしていたので
母親に頼んで黒いマントをイメージした
ステージ衣装を作ってもらい

白塗りでステージに登場して
当時の彼女をドン引きさせた(笑)

男子の友人たちからはすこぶる好評だったが。

ライブの持ち時間半分を使って
10分近くあるスターリンの「虫」を演奏したり

他には「ロマンチスト」「電動コケシ」
「解剖室」「天プラ」「アザラシ」など

とてもじゃないが健康的とは言えない
前衛的な曲たちを演奏していたが

個人的には悪くないと思っていた。


これは1980年代半ばの出来事で
私の音楽遍歴の幕開け、

当時を振り返るとミュージシャンと言うよりは
パフォーマーだったと思う。

私がステージに上がって声を発すれば
見ず知らずの観客でも振り向かせられる、

意味もなくそんな自信に溢れていたのだ。

そして実際、それはまんざらでもなかった、
歌声が独創的だったのか?
常軌を逸したパフォーマンスをしていたのか?

理由はわからないが気づけば
少しずつ私はバンドマン仲間の間で

狭い世界の中ながらボーカリストとして
それなりに知られるようになっていった。

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